「平和と繁栄の回廊」構想 関連資料

「過去の克服」としての開発批判

―開発コンサルタント企業を軸としてー

成瀬謙介
2008年4月

はじめに

 ここでは、ヨルダン渓谷開発計画を、イスラエルーパレスチナ関係から離れて、日本による「開発」の系譜に位置づけなおし、そこから現状に対して問題提起をおこなうことをめざしたい。その際の対象として、開発を企画する主体であるコンサルタント会社、とくにヨルダン渓谷開発計画の基礎部分をJICAと共に作り上げた日本工営(株)に着目したい。

開発コンサルタント─日本工営株式会社

 開発には様々な主体が関係する。リオール・ノランは「莫大な利潤を生む産業」である開発を遂行する四つの主要集団として、多国籍援助機関(国連、世界銀行・IMF)、二国間援助機関(米国国際開発庁USAID)、非政府組織(NGO)、民間コンサルタント会社をあげている[注1]。──開発コンサルタント会社は非常に大きな役割を果たしてきたし、果たしている。以下では、本計画に密接な関連を持つ日本工営の沿革を振り返りたい。同社の歴史の検討は、同社が現代日本における開発コンサルタント業界の最大手の一つであり、また後述する同社創業者久保田豊が、海外コンサルティング企業協会の設立(1964年)にも中心的な役割を果たしたという点において、重要な意義を持つといえる。
 そこには戦前の帝国主義的植民地支配の歴史の克服と、そして「戦後」日本の克服という、二重の意味での過去の克服という課題が待ちかまえている。

注1 リオール・ノラン『開発人類学 基本と実践』2007年、古今書院、p.34。

植民地朝鮮、「満州国」の「開発」

 日本工営という企業の源流は「遠く大正の末期から昭和二十年に至る間、日本窒素グループの一員として朝鮮の電力開発を推進した久保田豊(現当社会長─引用者注:1981年現在)とその技術陣の事業活動に遡ることができる」[注2]。
 植民地朝鮮において日本窒素が水利権を獲得した、朝鮮北部の赴戦江での電力開発事業を現場で主導したのが、ここでいう日本工営の創設者久保田豊(1890-1986)である。この電力開発事業とは、同時に設立された朝鮮窒素の工場に電力を供給することを目的とし、日本窒素による全額出資というかたちで朝鮮水電株式会社が設立された。朝鮮水電は1930年に朝鮮窒素に合併されたが、その後も野口遵(1873-1944)を社長とし、朝鮮送電が設立されるなどし、そうした現場で久保田は開発技術者として、また経営者として実績を積んできたのである。
 こうした植民地開発計画のなかでも最大規模のものが「満州国」と植民地朝鮮の国境線上に位置する鴨緑江開発計画である。水豊ダムと呼ばれるこの巨大施設開発に伴い、数万人もの人々が移住を強いられ、また労働動員をされたのである[注3]。

注2 日本工営株式会社『日本工営三十五年史』1981年、日本工営、p.2。

注3 広瀬貞三「「満州国」における水豊ダム建設」『新潟国際情報大学情報文化学部紀要』は、移住の問題のみならず、戦時の労働動員の問題についても詳細に検討している。

敗戦から戦時賠償開発の時代へ

 そして、敗戦後日本へと引き揚げた久保田豊が、同じく引揚げた幹部らとともに1947年に設立したのが日本工営である。当時の請負事業をみると、コンサルタント部門では同時代に展開した戦後開拓政策のコンサルタントや、工事・生産部門では電源施設新設工事を中心としていることがわかる。占領期間を通じて、日本企業の海外への展開は厳しく抑制されていた。
 1952年、サンフランシスコ講和条約による独立を果たした直後から日本工営は「日本産業の海外進出の尖兵として」[注4]活発な活動を開始するのである。その第一弾が、ビルマ(現ミャンマー)・バルーチャン開発であった。これは、日本政府による初の賠償金を資本とした開発であった。久保田は自叙伝の中でこう述べている。「私は国内で機会あるごとに『賠償は一種の前払い金と思えばいい。技術、商品をこれにあてれば、将来、貿易の呼び水になる』という論を述べていたが、なかなか政府や国会はこれにのってこなかった」[注5]

注4 前掲『日本工営三十五年史』p.70。第二章第一節の見出しより引用。

注5 久保田豊『私の履歴書27』1966年、日本経済新聞社、p.160。

 ──しかし、久保田の主張は実現する。
 現地の開発主義政権と協力関係を構築し、戦前における経験をふまえ大規模開発をつぎつぎと為していく先鞭を切っている。そうしたプロジェクトを受注する建設会社もまた日本企業であり、まさにここでも開発コンサルタント会社は自ら述べるように「尖兵」であった。
 他方で、こうした開発対象は海外だけだったわけではない。強力な政府の後押しを背後に推進された新東京国際空港建設計画、現在でいう成田空港の設計・コンサルタントもまた、日本工営の手になるものであった。同事業は、とりわけ空港開発のための強制的農地接収を巡って、戦後日本社会における国家と民衆の間に最大規模の紛争を引き起こした。

「開発援助」へ─新しい開発?

 戦時賠償を基礎とする開発は、高度経済成長期をへて、先進国による開発途上国への「援助」という様式へと変容する。日本によるODA拠出金額は1980年代後半に世界最高となり、現在においても世界でもトップクラスにある。しかし、その負の側面への批判はこれまでも常に国内外から続けられてきた。その一例として、鷲見一夫による以下の叙述をみてみよう。

「日本工営」が手がけたガーナにおける大規模農業開発プロジェクトは、日本のコンサルタント企業がアフリカに進出した最初のケースであったが、これ以降の日本のアフリカへの農業開発援助の基本的パターンを形作る先例となった。つまり、ダム建設によって大規模灌漑農業を普及し、換金作物の生産を奨励するということが、農業開発援助の名のもとでアフリカ各地において展開されていくのである。そこには、土着農業を破壊こそすれ、育成するという姿勢はほとんど見られていない [注6]。

注6 鷲見一夫『ODA 援助の現実』1989年、岩波新書、p.137。

 こうした批判をうけ、現在では開発援助においても、現地住民の意向を組み込んだ、新しい開発という路線が掲げられている。そこでは従来の批判を浴びてきたいわば大型ハコモノの援助から「人間開発」・「コミュニティーエンパワメント」を強調している点が特徴といえよう。JICA・日本工営などにより執筆された『ジェリコ地域開発計画最終報告書』においても、本計画が「参加型アプローチ」を採用し、現地住民との協力の下に実施されていることが繰り返し主張されている。だが、これを転換と捉えることは果たして妥当であろうか。現地住民の「支持」と「協力」のもとに大規模農業開発を遂行することは何ら否定されていないのである。

おわりに

 極めて断片的ではあるが、戦前の植民地朝鮮・満州国、戦後日本、戦後アジア・アフリカを日本工営という一つの開発コンサルタント企業の活動から振り返ってみた。そこには、大規模開発を通じた経済成長を至上の価値としていたがゆえに、冷戦下においても資本主義・社会主義体制を問わず幅広く展開してきた足跡が伺うことが出来る。
 そこでは、戦前日本の活動への賠償も、新たな発展を生むための跳躍台に過ぎなかった。こうした国家レベルの賠償へと一方的に偏り、個人レベルでの犠牲や被害を無視し続けてたことは、今日いかなる帰結を見ているか。この点において、冒頭に述べたように「戦後」日本という過去の克服でもあるのである。
 しばしば、政府・国際機関を批判する際に、それでは現地の人々はいかなる開発を求めているのか? という問いが発される。しかしもはや「新しい開発」は、そうした「現地の人々の声」それ自体を作り上げることを基本戦略としているということに眼をむけなければならない。「現地の人々」なる漠然とした想定自体が許されないのではないだろうか。
 こうした路線の一体何が新しいのだろうか。『ジェリコ地域開発計画最終報告書』に露骨にあらわれているような、現地に存在する伝統的な結合を、経済発展を阻む桎梏と捉え、新たな経済主体を育成しようとする思考方法はむしろ帝国の過去を想起させる。帝国主義の植民地支配が圧倒的な暴力を背景にしつつも、その「近代化」政策を通じて多くの「対日協力者」を作り出してきたように、これらの資本主義的開発も又、一定程度の協力者を作り出すことには成功するであろう。しかしながら、そこに新たな分断と矛盾がうまれることは想像に難くない。領土的支配を伴わない、資本による支配が、いま、ヨルダン渓谷においてはイスラエルによる不法な軍事占領と折り重なる形で展開されようとしているのである。
 「神武景気」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といったフレーズのもと、経済成長を続けることをひたすら追求し、いまでは過労死と自殺が渦巻き、小規模な内戦どころではない死者を生むこの国が、どうして他国に自らの経路を歩ませひとびとを幸せにすることができるだろうか。本当に問われていることは、わたしたち一人一人が、自分自身がいかなる「開発」を通じて幸せを求めているのか、ということではないだろうか。先進国=Developed Country=開発済みの国の「壊死する風景」を生きる私たち自身が答えを作り上げていかなければいけない。

【関連サイト】

「過去の克服」としての開発批判
―開発コンサルタント企業を軸としてー
成瀬謙介(「反戦と生活のための表現解放行動」参加者)
2008年4月
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(掲載写真:Tubas farm: michaelramallah

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