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2006.03.16

エリコ刑務所攻撃の背景

Posted by:早尾貴紀

 パレスチナ自治区のエリコにある刑務所が、3月14日、イスラエル軍に襲撃を受け徹底破壊をされ、アフマド・サアダートPFLP議長ら数名が軍に拘束された。このこと自体はニュースに流れているとおりだが、現地の分析報道によるといろいろと複雑な背景があるようだ。主に翌15日のハアレツ紙に掲載されたいくつかの記事から読み取れることを概観しておこう。

 まずこの事件の前史を見ると、2000年の第二次インティファーダに乗じたイスラエル軍によるパレスチナ大侵攻と全面占領政策の中で、イスラエル軍がパレスチナの武装勢力各派の要人や戦闘員を次々と暗殺していったことから始まる。01年8月にサアダートの前任のPFLP議長が暗殺されたことを受け、PFLPはその「報復」として10月にレハヴァム・ゼエヴィ観光大臣を、エルサレムの高級ホテル(西エルサレムとの境界に近い東エルサレム内部にあるホテルで事実上の入植地)で暗殺した。ゼエヴィ観光相は、全パレスチナ人を追放してパレスチナ全土をイスラエル国家にするという「大イスラエル主義」を党の政策としているモレデット党から当時の内閣に加わっていた。もちろんだからと言って暗殺をされていいとか、その人物を殺害することが「報復」として正当化されるということではないが、「標的」として狙われたことには、そうした背景があることは否定できないだろう。
 この暗殺作戦を指揮したとされているのが、アフマド・サアダートPFLP議長である。翌02年、大侵攻下でイスラエル軍によって軟禁状態におかれていた当時のアラファト自治政府大統領とイスラエル軍との政治取引により、アラファト大統領の軟禁を解くのと引き換えに、サアダートは拘束され、欧米使節の監視のもと、エリコの刑務所に収監・監視されることとなった。その後、アラファト体制のもとで、すでにサアダート釈放は政治日程にあがっていたが、しかしイスラエル側から釈放すれば即座に殺害すると警告を受けており、実現にはいたらなかった。

状況の変化1

 そうした状況に変化をもたらしたのが、この1月のパレスチナ議会選挙におけるハマスの勝利である。まずは主にハマスのメンバーらを対象に収監されている政治犯の釈放要求が高まり、それに合わせて他の党派からも「差別的待遇をするな」と、同様の釈放要求が高まっていた。もちろん、獄中出馬で当選したサアダートに対する釈放要求はとくに強かった。アッバース自治政府現大統領には主体的判断をするまでもなく、そうした要求に応じないでいるだけの力がもはやなかっただろう。
(今度の攻撃のタイミングは、アッバース大統領の外遊時に行なわれており、釈放も暗殺も阻止できずに手詰まりだったアッバースにとっては、むしろ「救われた」という側面もあるという指摘もある。「不在」のアッバースは、対応を迫られることもなく、「知らぬ間に事が進んでしまった」のだから。)

状況の変化2

 そこに、協定によって刑務所の監視に当たっていた欧米使節団が、ハマス活動家の釈放などにより治安に不安があるなどいくつかの理由によって、協定を破棄して監視を離れてしまった。使節団側は自治政府側の対応の不備を批判するが、パレスチナ人の側からは、攻撃を予告するイスラエルの圧力に怯えて去ったとか、あるいは、監視を離れたことがイスラエル軍の突入にゴーサインを出したととられ、反批判が出ている。
 この事件の直後に自治区で度重なっている欧米関係の施設への襲撃や欧米人の拉致騒ぎがパレスチナ人によって行なわれているのには、このことが背景にある。
[追記] 「エリコ襲撃は米英と協議の上でやった」モファズ国防相 (P-navi)も参照のこと。

状況の変化3

 そして二週間後に迫ったイスラエル総選挙がこの事件と関係がないはずがない。オルメルトは事務肌で穏当な外交力を持ち現実主義者と見られているが、いまだにイスラエルの選挙では、軍隊経験の有無、軍隊での手柄が重視されており、オルメルトにはその「タフさ」が欠けているという印象がある。シャロン将軍の後継者としては、ひ弱なのだ。世論調査では、シャロンが創設しオルメルトが引き継いだ新党カディマは、シャロン健在時の予測議席40から若干後退し、37議席程度となり、そこで落ち着いてしまっている。このままではこれ以上の躍進は望めない。
 選挙直前のこの行動は、オルメルトが、軍事行動も辞さない姿勢を持っているという「タフさ」をイスラエル国民に示す絶好の機会となった。

もうひとつの意図:ヨルダン渓谷支配

 公然とは語られないが、今回の強硬なイスラエル軍の軍事行動には、ゼエヴィ殺害犯のサアダート拘束という表面的なこと以外に、政策的な意図があるように思われる。それは、西岸地区内部のヨルダン渓谷沿いの広大な土地を今後どうするのか、という問題が絡んでいる。
 オルメルト首相代行は、総選挙前だということもあり、ガザ地区で示した「一方的分離」を西岸地区へと拡大をし、「国境画定」をすることを宣言している。もちろんこの「分離」や「国境」が、西岸内部に分離壁を食い込ませながら奪いつつある、エルサレム周囲の入植地群やアリエルなど北部の巨大入植地やグリーンライン沿いの水源地帯などを、イスラエルの領土として永久に完全に併合してしまおうというものだということは、何度でも繰り返し強調すべきことだ。
 さらに別の意図からいま議題にのぼっているのが、ヨルダンとの国境地帯をなすヨルダン渓谷地帯である。広く平野をなすこの一帯は、近代的灌漑設備によって、大量の水(もちろんパレスチナ人から奪った水)を使う農作物を栽培する広大な農地となっており、それらがユダヤ人入植地の大部分をなしている。そうした経済利害以外に、西岸地域の一部を「分離」したときに、パレスチナとヨルダンとの国境管理をどうするのかということは、イスラエルにとっては深刻な懸案事項となっている。ガザ地区とエジプトとのわずかな国境線の管轄権の委譲でさえもかなりもめたが、それよりもはるかに長い境界線を有しパレスチナを外に開きかねないヨルダン渓谷地帯は、イスラエルにとっては手放し難い。選挙を意識して、最近オルメルトは、ヨルダン渓谷地帯も「最終的にイスラエルの支配下に置く」という方針を打ち出している。(もはや「西岸からの撤退」などという内実など一切なくなっている。効率の悪い入植地をいくつか整理するというだけのものを、あたかも「国境の画定」=「占領の終結」であるかのような印象操作をしているのだ。)
 実際先月から、ヨルダン渓谷を西岸地区の主要部分から切り離す分離壁の建設が始まり(P-navi info ヨルダン渓谷と西岸を隔離する壁建設、始まる 参照)、その地域のパレスチナ人の通行がイスラエル軍によって厳しく制限されている。この一ヶ月、隣国ヨルダンとの出入り口であるアレンビー橋から戻ってきた人も含めて、パレスチナ人が集団で足止めを食わされているという報道が何度かなされている。さらには、今度のエリコ攻撃の前日のハアレツ紙にも、いったんヨルダン渓谷地域を離れたパレスチナ人2000人が戻ることをイスラエル軍に禁じられているが、その措置が、彼らが土地を不法にユダヤ人入植地やイスラエル軍駐留地のために収用されたことに対する返還要求を食い止めるためだ、とする記事が出たばかりだった。
 今度のエリコ攻撃は、ヨルダン渓谷地帯に対するイスラエル軍の支配を強化する一ステップとなるように思われてならない。実際、エルサレムの東側に(つまり西岸地区内部深くに)突き出した巨大入植地群(マアレー・アドミームも含まれる)とエリコはさほど遠くない。そしてエリコはアレンビー橋のすぐそばだ。この地域をおさえてしまえば、完璧に自治区西岸地区の南部と北部を分断できる。もはやヘブロンとナブルスを往来することは不可能になるのだ。

 なお、 エリコの刑務所がイスラエル軍に襲われているエリコ攻撃に関して [ヨルダン渓谷の入植地群とエリコの地図つき](ともにP-navi info)を参照のこと。

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