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2006.05.05

「イスラエル独立記念日」=「パレスチナ・ナクバの日」

Posted by:早尾貴紀

 5月3日がイスラエルの「独立記念日」でした。1948年5月14日の深夜に独立宣言が読み上げられましたが、14日というのはユダヤ暦で西暦にすると今年は3日。そして言うまでもなくその日は、パレスチナにとっては破滅を象徴する日、いわゆる「ナクバの日」でした。
 多くのパレスチナ人が虐殺された他、およそ80万人から100万人のパレスチナ人が難民として、現在の西岸・ガザ地区やヨルダン・レバノン・シリア・エジプトなどに「一時的避難」として逃れ、しかしイスラエルが建国されてしまったために、故郷に戻ることがかなわなくなりました。またイスラエルとなった領域内部でも、もとの家や村を失い移住を強いられた「域内難民」も数万人に達しました。

 その5月3日の「ナクバの日」に、48年に破壊をされてしまったハイファ郊外の村の跡地ウンム・アル・ズィナートを出発し、その難民たちが避難した先のダリアット・アル・カルメルまで行進するデモがありました。およそ2500人のパレスチナ人(イスラエル国籍をもつ)と、デモを支持する一部のユダヤ人の参加者がありました。ハアレツ紙はそのことを、決して大きくはない記事で伝えた程度でしたが、 Counter Punchに掲載された記事 は、この地域と人びとが48年当時にどのようなことを体験したのかを、丁寧に伝えています。
 ウンム・アル・ズィナートは広大な農地をもつ村で、独立宣言の直後にすぐに軍事攻撃を受け、全住民が避難を強いられました。避難先となったダリアット・アル・カルメルはドルーズ(イスラーム・ドルーズ派、主流のスンナ派に比して圧倒的少数)の村で、ドルーズは第一次中東戦争(「独立戦争」)で「中立」の立場をとる(ないし一部はイスラエル側につく)ことで共同体の独立を守ろうとしたため、イスラエル軍からの攻撃を受けませんでした。そうした事情から、ウンム・アル・ズィナートも含めた周辺の村々から1万人を越す避難民が逃げ込みました。
 しかしそこに輸送用のバスを連ねたイスラエル軍が急襲し、避難民狩りをしていきました。難民たちは1年以上の収監ののち、ヨルダン軍の捕虜となっていたユダヤ人兵士との交換で、ヨルダン側に引き渡されました(つまりイスラエル領となってしまった故郷を追放されました)。

 そうした村の破壊と難民化の歴史は、イスラエル領のいたるところにあります。「ナクバの日」はその歴史を決して忘れないことを確認する日、難民の帰還権を訴える日、そして、いまもなお続くイスラエルによる民族浄化政策を批判する日です。

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