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2009.01.05

(ガザ侵攻関連:翻訳)ガザ戦争に対するイスラエルの責任

Posted by:早尾貴紀

【追記】
 訳者として補足の文章を「スタッフノート」にアップしました。
「ハマス政権の評価をめぐって――ヤコブ・ベン・エフラートの論考への訳注として」 のほうも併せてお読みください。


ガザ戦争に対するイスラエルの責任
ヤコブ・ベン・エフラート

 私の論考「ガザを支配するイスラエル」は、驚いたことに、非常に多くの反応を引き起こしたが、なかには、もっぱらこの事態の責任をイスラエルにのみ帰したことに対する異論も含まれていた。確かにあれだけの短い一論考では、発端をはるか1967年までさかのぼるこの戦争を包括的に分析してみせることは不可能だった。ところどころで一般化させた説明で済ませてしまったが、その正当性をより詳細に述べる必要があったかもしれない。

 世間一般の通念では、以下のようなことになるだろう。2005年にイスラエルはガザ地区から撤退し、その地にあるすべての入植地を撤去ないし破壊した。それにもかかわらず、ハマースはロケットをネゲヴ地方のイスラエルの町に打ち込んだ。そうした主権の侵害に対しては何らかの対処を要するのだから、罪のない多くの市民を含んだ大虐殺という犠牲を出したとしても、現在の軍事作戦は正当なものである、と。

 それに加えて、私の立場に反対する人びとはこう主張している。征服者で占領者のイスラエルに対する嫌悪に私が動機づけられているからであれ、あるいは、パレスチナ人がひどく虐げられているから彼らがどんな行動をとっても責任がないからということであれ、ともあれ私がハマース体制を完全に免責しているのだ、と。

 そういうことであれば、イスラエルに責任を限定するに際して、私に異論を唱える側の不正を私が見逃してはいないことを明らかにしておきたい。

 1993年(オスロ和平合意)以来、パレスチナの指導者たちはありとあらゆる間違いを犯してきた。彼らはオスロ和平案に合意したが、それはパレスチナ国家の独立も入植地の撤去も約束するものではなかった。彼らはたんに占領と協力した腐敗体制を打ち立てただけであった。人びとは彼らを見限り、過激な宗教運動であるハマースへと乗り換えた。

 ハマースは、天国に行くための殉教(自爆も含めた攻撃への参加)を助長し、イスラエルに対する殲滅戦争を企ててきた。あらゆる希望を失ったパレスチナ民衆のなかで威信を高めるための道具として、とりわけ(ファタハ主導の)パレスチナ自治政府に取って代わるための道具として、武装闘争を使っているのだ。そしてハマースはイスラームへの覚醒の先鋒を自任している。2007年6月のガザ地区乗っ取りを、ムスリム同胞団がエジプトからヨルダンまで、そしてシリアからサウジアラビアまでを征服する行進の小さな一歩とみなしている。さらに指導者らの傲慢な振る舞いと戦略上の判断は、ユダヤ人憎悪に動機づけられているように見られても仕方ないが、それに劣らないほどの世俗的なアラブ体制への憎悪をも備えている。世俗体制をイスラエルに匹敵するほどの断固たる敵とみなしているのだ。ガザ乗っ取り時の無慈悲な暴力は、こうした憎悪の証左であった。

 しかしながら、もしそうだとしたら、どうしてイスラエルだけに責任が負わせられるのか? その理由は簡単だ。ガザ地区でこれまで起こったこと、そしていま起きていることを防ぎえたのは、もっぱらイスラエルの権力だけだからだ。イスラエルの経済力と軍事力はともにパレスチナ自治政府とは比較にならないほど巨大だ。だが、数十年もの占領期にイスラルがおこなったのはただただパレスチナの発展を阻害することだけだった。ガザ地区を支配しているあいだも、イスラエルはガザを踏みにじり、現在のような貧困と後進性へと追いやった。この現実は、軍事力の行使によって改善しうるものではない。

 そのうえイスラエルはオスロ合意を、西岸地区支配を強化する踏み台として利用した。パレスチナ側と交渉する一方で、イスラエルは新しい入植地を急増させ、すべての丘の上にアウトポスト(前哨入植地)を置き、エルサレム周囲に近郊入植地帯を大規模に拡大させた(このようにしてエルサレムを西岸地区から切り離すと当時に、西岸地区を南北に二分した)。なんの良心の咎めもなくイスラエルは、西岸地区から通勤する膨大な数のパレスチナ人労働者を締め出した。しかも、何十年にもわたってパレスチナの市場をイスラエル製品で溢れさせ、パレスチナ人が地元で働けるような経済発展を妨害した挙げ句に、労働者の締め出しをおこなったのだ。イスラエルは、第三世界諸国の最悪のレベルに匹敵する失業と貧困をパレスチナ人のなかに生み出したのだ。そしてイスラエルはその失った労働力を、奴隷的な条件で海外から移住労働者を導入することによって補った。くわえてイスラエルは、腐敗したパレスチナ自治政府を立ち上げるのに手を貸し、それを通して占領地での諸事をコントロールできるようにした。

 オスロ「和平」というこの不安定な体制は、2000年9月にアリエル・シャロン(当時リクード党首)がエルサレム旧市街のアルアクサー・モスクのある敷地(イスラームの聖地)を挑発的に訪問した直後に崩壊した。それからまもなく、イスラエルの人びとはまさにそのシャロンを首相に選んだ。シャロンは、新たに得た権限で、パレスチナ自治政府を破壊し、ヤーセル・アラファート大統領を封じ込めた。アラファートの死はパレスチナ自治政府を破滅へと転落させた。その真空地帯にハマースは駆け込み、イスラエルの街で自爆攻撃をおこないつつ、権力への道を開いたのだ。イスラエルの対処は、分離壁の建設であったが、それ自体が暴力的な衝突の争点になっている。これらすべてが効果をあげなかったとき、シャロンは一つのアイディアを思いついた。これが目下の論争の中心にある、ガザ地区からの一方的撤退である。

 なぜ一方的なのか? どうしてイスラエルは、このガザ撤退というきわめて重大な政策を、パレスチナ自治政府との包括的和平合意に達するために利用するという賢明さに欠けたのか? その答えは、シャロンが西岸地区とエルサレムの命運についてパレスチナ側と交渉したくなかったから、ということだ。それどころかシャロンは、西岸地区の大部分に対する支配を強化するために、ガザ地区を切り捨てたかったのだ。

 2005年8月のガザ地区からの撤退は、その一方的という性格ゆえに、パレスチナ自治政府大統領アブー・マーゼンのファタハをいっそう弱体化させるという結果となった。ハマースは2006年1月の議会選挙で勝利した。すなわち、一方的撤退という、クネセット(イスラエル国会)においてすべての中道・左派とアラブ議員から支持を得た政策が、いまから振り返ると現在の戦争を開始する射撃となっていたのだ。『チャレンジ』誌とそのヘブライ語版『エトガール』誌(アラビア語版『サッバール』もある)の読者らは、現在の事態を見て、われわれが一方的手法に強く反対していたことを思い起こされるだろう。

 現在のイスラエル政府は、「誰も対話相手はいない」と再び結論づけている。イスラエル政府は、アブー・マーゼンとの無駄なおしゃべりに二年も浪費し、仮想のパレスチナ国家の絵を描いてきた。この無駄話の真の目的は、報いを受ける日(最後の審判)を延期することだ。イスラエルの指導者たちは、対話の不毛さについてもっともらしい説明をつけている。アブー・マーゼンは弱いし、ハマースはガザ地区を武力で支配しているから、実質的な対話相手がいない、と。だがわれわれは、あくまで問いつづける。この事態に対する主要な責任は誰が負っているのか、と。

 われわれが責任の問題を提起するときには、イスラエルが過去に何をなしえ、そしてそれをしなかったのかだけを述べているのではない。同時に、戦車が(ガザ境界の)フェンスを破りさらなる破壊を撒き散らす前に、われわれが現在なにをなしうるのかを問うている。われわれはイスラエルに対して、1967年に占領したすべての土地から撤退するという明確な態度表明をおこない、紛争を終わらせることを望んでいるパレスチナとアラブのあらゆる組織と対話する用意があると宣言することを要求する。

 イスラエルが上記のような立場を確約したとたんに、ハマース体制は民衆の支持を失うだろう――ハマース自体が根本的に変わらないかぎりは。イスラエル側からそうした態度表明をおこなえば、パレスチナ人が和平交渉に入る民意を託した指導体制を選ぶことができるようになるだろう。分離壁は崩れ落ち、二つの民の歪んだ関係を二つの国家の正常な関係へと転換させられるだろう。

 しかしながらイスラエルが、こうしたプログラムに向けた態度表明を拒否しているかぎり、なにがなんでも西岸地区およびガザ地区の支配を強化しようとするかぎり、(占領地への)出入りを管理し港や空港の建設を阻止するかぎり、そしてシンベト(イスラエル国内諜報治安機関)が遠隔操作的に占領地で活動しているかぎりは、イスラエルにはパレスチナ人を虐殺する道徳的権利などない。すぐ隣の民衆の主権を否定しながら自らの主権を擁護する権利もイスラエルにはない。さらに悪いことに、この流血は無益でしかない。占領が続くかぎり、抵抗もまた継続される。これこそ、イスラエル政府が頑なに学ぶことを拒否してきた教訓なのだ。


翻訳:早尾貴紀

原文: Israel's Responsibility for the War in Gaza

By Yacov Ben Efrat, Organization for Democratic Action

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