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2009.01.15

(ガザ関連:翻訳)イラン・パペ「まず彼らを柵で囲い込み、そして、、、」

Posted by:早尾貴紀

 二年前に 東京大学UTCP で招聘したイスラエルの反シオニストの歴史学者イラン・パペ氏が、今回の事態を受けて緊急に執筆した文章です。
 なお、このときのパペ氏の講演集は、 ミーダーン編訳にて『イラン・パペ、パレスチナを語る――「民族浄化」から「橋渡しのナラティヴ」へ』(つげ書房新社、2008年) として刊行されています。今回のガザ攻撃の背景を知るうえでも有益です。

 また、すでに予告していますように、この同じUTCPの枠組みで、今度はガザ問題の専門家、 サラ・ロイ氏を3月はじめに招聘します


ロンドン・レヴュー・オヴ・ブックス(オンライン限定版) 2009年1月14日

「まず彼らを柵で囲い込み、そして、、、」
(改題:イスラエルのメッセージ)

イラン・パペ

 2004年にイスラエル軍は、ネゲヴ砂漠のなかに模造したアラブの町をつくり始めた。実寸大の町で、名前のついた通り、モスク、公共施設、自動車なども備わっているものだ。4500万ドル[40億円]を費やしたこの幻影の町は、2006年冬にはガザの模造となった。すなわち、北でヒズブッラーとイスラエルが戦って引き分けた後のことで、イスラエル軍は今度は南でハマースと「よりましな戦争」が戦えるように用意ができたわけだ。

 イスラエル軍の参謀総長ダン・ハルーツが[06年の]レバノン戦争のあとにこの場所を訪れた際、記者にこう語っている。「兵士たちは、ガザ市の人口密集地で作戦を展開するシナリオに備えている」、と。ガザ空爆の一週間前に、エフード・バラク[国防大臣]は、陸上戦のリハーサルを視察した。海外のテレビ局が撮影したのだが、バラクは、陸上部隊がこの模造した町を制圧し、空っぽの家を急襲し、その内部にひそむ「テロリスト」を躊躇なく殺害する様を見守っていた。

 「ガザが問題なのだ」と、1967年6月に、当時のイスラエル首相レヴィ・エシュコルは言った。「1956年に私はガザにいたことがあるが、毒ヘビどもが通りを練り歩いていた。ヤツらの一部を[ガザに隣接するエジプトの]シナイ半島に放り込んで、あと残りは[ガザから]出ていってくれることを願うばかりだ」。エシュコルは、[67年の第三次中東戦争で]新たに占領した土地について議論していたのだが、エシュコル内閣は、ガザ地区に住んでいる人びとを除去した土地をほしがった。

 イスラエル人はガザ地区をしばしば「ヘビの穴」にたとえる。第一次インティファーダ[1987年]以前、ガザ地区から労働者がテルアヴィヴに行き、皿洗いや道路清掃をしていた頃は、ガザの人びとはもっと人間的に思い描かれていた。その「蜜月」は、第一次インティファーダのあいだに[ガザからの]労働者が[ユダヤ人の]雇用主を刺傷する事件が何件か続いて、終わりを迎えた。これらの事件はそれぞれ別個のものであったが、宗教的な情熱に駆り立てられたものだとされ、イスラエル内にイスラーム憎悪的な感情の高まりを引き起こした。そしてこのことが、最初のガザの囲い込みと、電流フェンスの設置につながっていった。1993年のオスロ合意の後でさえ、ガザ地区はイスラエルによって封鎖された続け、たんなる低賃金労働者の供給源として使われた。1990年代を通して、ガザ地区にとっての「和平」が意味したのは、ゲットーへの段階的な変化でしかなかった。

 2000年には、当時の南部方面軍司令官ドロン・アルモグは、ガザ地区との境界を取り締まり始めるに際し、「われわれは、最新の技術を備えた監視地点を何箇所か設け、兵士らは6キロ離れたところから、フェンスに接近する者を誰でも狙撃することを許可されている」、と豪語し、さらには同様の方針がヨルダン川西岸地区でも採られるべきだと示唆した。過去2年間だけで、100人ものパレスチナ人が、[ガザ地区の]フェンスに接近しすぎたという理由で兵士に射殺されている。2000年から現在の戦争が始まるまでのあいだに、イスラエル軍がガザ地区で殺害したパレスチナ人は3000人にも達する(うち634人が子どもだ)。

 1967年[第三次中東戦争]から2005年[ガザ入植地撤去]までのあいだ、ガザ地区の土地と水は、グッシュ・カティーフ[ガザ地区にあった入植地群]のユダヤ人入植者らが地元住民を犠牲にするかたちで、不法に占有してきた。ガザ地区のパレスチナ人にとって、平和と安全の対価というのは、監獄化と植民地化に身を委ねることであった。しかし2000年[第二次インティファーダ]以来、ガザの人びとはそうではなく、多くの人びとが大きな力で抵抗することを選択した。そのやり方は欧米世界から支持されなかった。というのも、イスラーム的でかつ武力に訴えたものだったからだ。その顕著な特徴は、粗雑なカッサーム・ロケット弾の使用に表れており、当初は主にグッシュ・カティーフの入植者に向けて発射されていた。ところがこの入植者の存在は、イスラエル軍が、パレスチナ人だけに標的を絞って、残虐な手法で報復攻撃をおこなう妨げになっていた。それゆえに入植者たちは排除されたわけだが、それは当時さんざん論じられたような一方的和平の一過程(アリエル・シャロン[当時首相]がノーベル平和賞を受けるのではと言われたほどだ)としてではなく、むしろその後に続くガザ地区に対するあらゆる軍事行動を容易にし、そして西岸地区への支配を強化するためのものであったのだ。

 イスラエルのガザ地区からの撤退の後、ハマースは、最初は民主的選挙によって、次にアメリカに支援されたファタハによる乗っ取りを防ぐために計画した先制的な一撃によって、ガザを支配した。そのかんも、イスラエル軍の国境警備兵はフェンスに近寄るパレスチナ人を殺しつづけ、また同時に、ガザ地区全体に対する経済封鎖を科した。ハマースは報復としてロケット弾をスデロット[ネゲヴ砂漠のユダヤ人の町]に発射し、イスラエルに対して戦闘機や戦闘ヘリや砲撃を使用する口実を与えた。イスラエルは、「ロケット弾の発射地域だけを撃っている」と主張したが、実際にはガザ地区のありとあらゆる場所が攻撃された。犠牲は大きく、2007年だけで300人が殺害され、そこには子ども数十人も含まれていた。

 イスラエルはガザ地区での軍事行動を、戦争に関するあらゆる国際法に違反しながらも、テロリズムとの戦いの一部として正当化している。パレスチナ人たちは、基本的な市民権と人権なしに生きていくことを認めないかぎりは、歴史的なパレスチナの地[イスラエル建国前のパレスチナの全体]のどこにも居場所がないように思われる。イスラエル国内で二級市民となるか、西岸地区とガザ地区で巨大監獄の囚人になるか、どちらかだ。もし抵抗すれば、裁判手続きなしに[本物の刑務所に]投獄されるか、さもなくば殺される。これがイスラエルが発しているメッセージだ。

 パレスチナにおける抵抗運動はつねに村や町に基盤をおいてきた(それ以外に抵抗の場所などあるか?)。それゆえに1936年のアラブ大反乱以来ずっと、パレスチナ人の町や村は(本物のであれ模造のであれ)、軍の計画や指令においては「敵の拠点」として描かれてきたのだった。いかなる報復行為や懲罰行為も、一般市民を標的とするほかない。というのも、その市民のなかに、イスラエルへの強い抵抗運動に関わっている一握りのパレスチナ人がいるのだから。1948年[イスラエル建国/第一次中東戦争]にはハイファ[イスラエル領となった北部の港町]が敵の拠点とされ、2002年[2000年からの第二次インティファーダの最中]にはジェニーンが敵の拠点とされた。そしていまでは、ベイト・ハヌーン、ラファ、ガザ[いずれもガザ地区内の主要な町]が拠点とみなされている。砲撃する能力があり、かつ、市民を虐殺することに対する倫理的規制がないと、現在われわれがガザで目撃しているような状況になるのだ。

 だが、パレスチナ人を非人間化しているのは、イスラエル軍だけの話ではない。同様の過程は、イスラエルのユダヤ人市民社会の内部にもあり、だからこそガザ大虐殺が大衆的に広く支持されているのだ。パレスチナ人たちはイスラエルのユダヤ人たち――政治家、兵士、一般市民すべて――によって非人間化されているがゆえに、1948年に追放されたのと同じように、あるいは占領地で監獄化されたのと同じように、当然のごとく虐殺も生じる。現在の欧米の反応[イスラエルの自衛権の容認]が示しているのは、欧米の政治指導者たちが、こうしたシオニストによるパレスチナ人の非人間化とガザ地区における野蛮な政策とが直接的に繋がっているということを見落としているということだ。「鋳られた鉛作戦」[今回のイスラエルのガザ攻撃の作戦名]の結末には、ガザそのものが、[冒頭で触れた]ネゲヴ砂漠のゴーストタウンそっくりになるという重大な危険がある。


翻訳:早尾貴紀

原文: "First you fence them in, then..."
(のちに改題:"Dummy or Real"/さらに改題:"Israel's Message")

By Ilan Pappe, Rondon Leview of Books (Online Only), 14 Jan. 2009

【付記】
 訳者補足として、そしてパペ氏の招聘者で講演集の編訳メンバーの一人として、次の文章も書きました。あわせてご参照いただければ幸いです。
「 イラン・パペ、ガザを語る――1948年から見直すガザ攻撃」 (早尾貴紀:本のことなど)

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