パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2004.11.23

アラファト氏の死去に関して

Posted by :早尾貴紀

 これは、パレスチナ情報センターの見解ではありません。一個人の私見です。
 実はアラファト氏の死去に関して僕自身は何かを公的に発言したりする気はありませんでした。しかし、パレスチナに関係することをしていると否応なく、「大変だねぇ」などと声を掛けられたり、あるいは「どう思うの?」などと見解を求められることもなくはなく、この際だから、この場で少し思うところをまとめて書いておきたいと思います。

 僕が関わっている パレスチナ・オリーブ とか、あるいはこのパレスチナ情報センターもそうだと思いますが、そもそもがアラファト体制とか自治政府とは「別次元」のところで活動をやっていこうとしているわけですから、基本的には今回のアラファト氏の死去とは「関係がない」。すでにその後の権力闘争や政争、あるいはイスラエルの思惑などが伝えられていますが、これからもそういうこととは関係なく、僕らは僕らのやれること・すべきことを模索していくと思います。
 どうして「別次元」などと距離を置くのか。それを説明するには、「イスラエル政府-アラファト自治政府」という構図(つまりオスロ体制)が切り捨ててしまった問題に目を向ける必要があると思います。アラファト氏はそうせざるをえない状況に追い込まれていったという面があるとはいえ(イスラエルとアメリカなどに「はめられた」と言ってもいいです)、自らの存在を公的に認知してもらうことと引き換えに、多くの重要な争点を棚上げにしてしまいました。単純に言ってしまえば、西岸・ガザの中のさらに細切れに分断されたごくごく一部の自治を認めてもらい(「ミニ・ミニパレスチナ国家」)、アラファト氏をその範囲だけの「統治者」として認めてもらうことと引き換えに、難民問題、入植地撤去、水利権などを放棄したのです。
 以降、「パレスチナ」は、あたかも西岸・ガザだけを指すかのようなイメージが定着し、国外難民の存在は急激に後景に退いていきました。彼らはアラファト氏によって置き去りにされたわけです。同時に「パレスチナ問題」から切り離されたのが、いわゆるイスラエル・アラブと呼ばれる、イスラエル国籍を持ちイスラエルの人口の2割を占めるパレスチナ人たちです。今回も「イスラエル・アラブは、アラファトの死に冷淡だ」という記事がハアレツに出ていましたが、それは話が逆で、アラファト氏から切り捨てられた結果としてそうなってきたのです。「イスラエル国家 対ミニミニパレスチナ国家(予定)」という構図を作られてしまったことによって、イスラエル・アラブは、パレスチナ問題の外部に置かれ、自分たち自身の問題に触れることができなくされてしまった、ということだと思います。「パレスチナ問題」が西岸とガザの「内部」にだけあるかのような錯誤を生じさせた責任の一端が、ミニミニ国家の「権力」に固執したアラファト氏にもあるということは否定できません。

 ただ、アラファト氏の批判だけを並べることに躊躇を覚えてしまうのは、やはり過去の解放闘争の実績があることもそうですが(だからと言って批判が相殺されるわけではないことは当然です)、それよりも自分たち自身の問題を脇へ置いておいて、パレスチナにだけ完璧なリーダーを求めるのは無責任で勝手だという思いが僕にはあるからです。独裁だとかナンバー2や後継を育てなかったとか腐敗していたという批判はもっともですが、とくに日本人とかアメリカ人は、自分のところの政治家をもっとなんとかしろよ、と自らに言わなければならないと思います。日本の首相もアメリカの大統領も世襲政治家で、しかも世襲のたびに劣化が進んで、およそ倫理とか論理とは無縁な、利害絡みの政治と、扇動的なキャッチフレーズの政治に没頭している。そういう政治家らを自分たちのリーダーとして担ぎ挙げておいて、「アラファトは独裁者で私腹を肥やして」って発言をするのには、羞恥を覚えます。
 また、アラファト体制に利用価値を見いだす限りで、それを支えたのはイスラエルとアメリカだし、当然日本も含めた国際社会もそのイスラエルとアメリカを支援し、一翼を担ってきました。壮大なコラボレーションです。そういう側面と、同時にその裏では、そういうコラボレーションをせざるをえないところまでパレスチナを追い込んだのも、イスラエル・アメリカ・日本などであるという面もあります。アラファト氏が湾岸戦争時にイラク支持を表明したことしかり、あるいは「第二次インティファーダ」しかり。アラファト氏は「判断を誤った」だけではないと思います。仕方がなかったと免責したいわけではありません。国際社会の無責任さ・身勝手さに目をつぶっておいて、アラファト氏の責任だけを問うような言い方はしたくない、ということです。

 したがって、もし僕が「どう思う?」っていう感じで見解を求められたら、せいぜいのところ言える答えは、部分的なアラファト氏批判とか部分的なアラファト氏擁護だとか、あるいはその折衷だとかではなく、日本も含めた国際社会のコンテクスト抜きのアラファト氏評価には意味がない、ということと、それから、僕らが目指すものは、「アラファト体制」(つまりは、それを利用したオスロ体制とポスト・オスロのロードマップ体制)とは別次元のことである、ということです。
 もちろん一人の人間の死は悲しむべきことだとは思います。しかしそれ以上のことではありません。毎日のように、パレスチナ人がイスラエル軍に殺されています。彼らはマスコミには数字にしか表れない、「名もなき」存在です。アラファト氏の死が、彼ら一人一人の死以上に悲しいということはありません。