パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2004.04.04

壁報道の不思議

Posted by :早尾貴紀

 分離壁について、3月半ばくらいに発売された『週刊新潮』に写真が掲載されたらしい。最近、たまたまそれを見たという知人がエルサレムを訪れて、ともかくパレスチナに来たのが初めてだから、案内してもらいないかと頼んできました。
「案内するのはいいですが、写真で見たというのであれば、たぶん見たまんまのものですよ。でも、確かに現物を見たら印象が違うでしょうし、エルサレムのすぐ周囲にも8メートルの本格的な壁ができているから、いま連れていってもいいですよ。」と言うと、「え、いますぐに見れるの? 写真も撮れるの?」と聞いてくるのです。「見れるも何も、乗り合いタクシーで旧市街から10分も行けばすぐだし、写真なんていくらでも自由に撮れますが。」と答えると、『週刊新潮』には、「危険地域にカメラマンが決死の思いで潜入し、兵士が睨みを利かせている中、見つからないようにカメラを隠して恐る恐る持って帰った特ダネ写真だ」、というようなキャプションが入っていた、と彼は言うのです。
 はっきり言って、ばかげています(壁そのものがもっともばかげているのは当然のこととして)。しかし、そう言うよりも見せるのが早いと、すぐに乗り合いタクシーに乗り、一人2.5シェケル(50円)を払って、着いたところは、アブー・ディースに行く途中で、分離壁によって行き止まりのところ。壁の切れ目でイスラエル兵がチェックポイントを作っています。「はい、壁です。」  彼は、「こりゃひどいな。撮っても兵士はなにも言わない?」と。僕は、「撮るなも何も、こんな目の前に延々と建てられていたら、隠しようもないじゃないですか。壁なんて秘密でも何でもないですから。いくらでも撮ってください。」と。

 これは誇張や単純化の極端な例です。『週刊新潮』は報道にすらなっていません。その写真家とやらがそういう売り込み方をしたのか、あるいは編集部がそういうセンセーショナルな書き方をしたのか。しかしここまででなくとも、「こんなに壁はひどいんだよ」、というだけの報道が増えてきているとは思っていて、それらは、この『週刊新潮』と実はあまり大差はないのではないかと思います。「壁がパレスチナ人を圧迫している」というのは、もちろん事実です。それはきちんと報道はされなければなりません。でも、じゃあ壁だけが問題なのか、壁がなければそれでいいのか、壁の両側をイスラエル軍が占領しているというのに…

 しかも、いつからみんなが突然に「壁、壁、壁」と言い出したのか。このことを考えてみると、腹立たしいのと興味深いのと、複雑な感情が僕にはあります。
 壁のラインそのものがどういう意味を持つのか、水源と入植地との関係などについては、徐々に一定の歴史的な分析が出てきています。壁という発想の起源をどこまで遡るかは、どこにポイントを置くかで、さまざまでしょう。10年前、30年前、50年前、建国以前、、、、ただ、はっきりと西岸地区の土地の一部をイスラエルに併合する現在のラインが出てきたのは、2000年クリントン米大統領が強引にイスラエル労働党政権のバラクとパレスチナ自治政府のアラファトのあいだで「和平合意」を結ばせようとしたときで、そのときには、すでに地図としてほぼいまの壁のラインに沿う、事実上のグリーンラインの変更による国境線の確定が示されていました。皮肉にも、その地図をパレスチナ側で発表したのは、自治政府の交渉担当だったアベッド・ラボ、つまりは昨年の「ジュネーヴ合意」なる非公式和平案を結んだパレスチナ側代表でした。それはともかくとして、最大の問題は、自治政府が、いまの壁のラインに沿う、イスラエルによる西岸の土地の併合を認めていたということです。もちろん、さまざまな要因からアラファトとバラクは、クリントン取りまとめの和平に最終的に受け入れるには至りませんでしたが。
 その後、分離壁としての建設プランが発表されたのが2001年。着工は02年の初め。イスラエルの新聞『ハアレツ』では、その間、決して大きな問題として訴えたわけではないが、動きがあるごとに報道をしています。しかし、パレスチナ自治政府は分離壁についてはずっと沈黙を決め込み、また日本のジャーナリズム(新聞、テレビ、フリーランス)でもそのことを同時的に取材しはじめたところはありませんでした。そして間もなく、西岸北部では、グリーンラインと分離壁のあいだに無権利状態で放置されたパレスチナ人が数千、数万人単位で現れはじめました。イスラエルの反シオニスト団体、デモクラティック・アクションで出している『Challenge』という雑誌では、02年の7-8月号に、この問題について、すでに入植地計画がそもそもの西岸併合プランのラインに沿ったものだったという分析を加えて、分離壁を報じています。僕たちパレスチナ・オリーブでは、この記事を翻訳してMLに流したりサイトに掲載しましたが、日本ではまったく反応はありませんでした。
 その後、イスラエルの新聞や雑誌では、進展があるごとに記事が出ていたけれども、僕の知るかぎり、日本のメディアでそれを取り上げたところは、03年の前半まで皆無でした。分離壁が西岸の入植地を大幅に取り込む形で食い込んでいる青図が、カラー印刷で『ハアレツ』に登場し、詳しい解説記事があったので(03年02月)、僕はそれも日本語に訳して流しましたが、これも反応はなし。『Challenge』誌に断続的に出ていた記事も訳出を続けていましたが、やはり注意を引くことはありませんでした。

 結局のところ、パレスチナ自治政府が分離壁に批判の声をあげたのは、アッバース当時首相が03年07月に訪米をしてブッシュ大統領と会談をしたときでした。それまで現地の住民からはずっと苦しみの声が伝わっていたにもかかわらず、政治的境界ラインとして認めてもらう、つまりは自治政府を政体として認めてもらうということで、イスラエルによる西岸の併合を黙認し、住民の声を無視してきたわけです。そして何よりも奇妙なことは、日本の報道機関は、それまで分離壁問題はタブーであったかのように触れずにいたのが、アッバースの発言によってタブーが解禁になったかのように、いっせいに報道をするようになったことです。分離壁に関する日本での報道は、見事なまでにアッバースの会談直後の03年08月から急に増えだしているのです。パレスチナ問題に関する日本報道ではほとんど権威になっているようなジャーナリストの方々も、そろってこの頃からの取材と発表です。
 そして報道「解禁」になると同時に、その報道のされ方は一様に「壁がこんなに人びとの生活を圧迫している」というものなわけです。あたかも壁の存在だけが悪であるかのように。しかし、「壁」はそういう形をいまとってきているだけで、これまでも存在はしてきたわけです。入植地そのものが「壁」であり、入植者用道路が「壁」であり、チェックポイントが「壁」です。そして、何よりも強調されなければならないのは、壁は入植地をイスラエル側に取り込み、入植地とイスラエル市民を守るためにあるのではない、ということです。話の成り立ちはその逆なのです。入植地はそもそもの初めから、土地を併合するための最前線としてつくられているのです。
 67年以降の占領地への入植地建設の経緯を見ても、あるいは90年代のグリーンラインを挟んだ住宅・入植地計画の進行を見ても、そもそも土地の収奪、そして併合が目的です。さらに言えば、イスラエル国家そのものが「入植地」なわけですが、48年の建国以前の「入植地」(いまではイスラエル領の中にあるユダヤ人の町を「入植地」とは呼びませんが)は、現在のグリーンラインを最前線とするようにして、つまり国境線を獲得するべく意図的に建設されてきたのです。グリーンラインはしばしば「休戦ライン」と言われますが、別にこのラインでイスラエル軍とヨルダン軍が軍事休戦をしたからここに線が引かれた、というわけではありません。ここのラインまで入植地が土地収奪のために建設されていたということ、そしてその最前線の入植地を線で結ぶとグリーンラインになったということ、この側面に着目する必要があります。
 67年以降の入植地建設も、90年代の住宅/入植地計画も、2000年以降の壁建設も、すべてこのシオニスト的発想の延長上にあるということこそが問題なのです。壁のラインがグリーンラインからずれているとか、じゃあどこを通ればいいのかとか、そういうことが問題ではないはずです。

 いろいろな形で批判の声をあげなければならないのに、そのタイミングにせよ、声のあげ方にせよ、どこかが違う、どこかイスラエル政府やパレスチナ自治政府の意向にねじ曲げられたりもてあそばれているような気がしてなりません。