パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2004.03.26

ヤーシーン暗殺の影で

Posted by :早尾貴紀

 ヤーシーン暗殺が行なわれたほんの三日前のこと。エルサレムのヘブライ大学に隣接する住宅地フレンチヒルで、イスラエル・アラブ(イスラエル国籍のアラブ・パレスチナ人)の学生が、ファタハに射殺されました。彼の葬式の日の朝には、ヤーシーン暗殺が起こり、一部の人を除くとこの事件は、大ニュースの前で吹き飛ばされてしまったようです。

 この誤射殺に関しては、ファタハが謝罪の公式コメントを出しました。「ユダヤ人だと思った」と。まったくひどい話だと思います。
 ただ、僕がこれについて若干書く前に、誤解のないように言っておきたいことがあります。いちいち踏み絵を踏まされるように、「私はパレスチナの武装セクトが行なうイスラエルの一般市民に対する行為には反対ですが」と前置きをしてからでなければ、イスラエル軍の行なっているパレスチナ人への虐殺や暴行を批判できないような雰囲気があります。また反対に、「私はあらゆるテロ行為について反対をしており、イスラエル政府・軍が行なっている占領地での虐殺行為も許し難いテロ行為であると思っています」と前置きをしてからでなければ、アラファト・PLOを中心としたパレスチナ自治政府やあるいはハマースなどを「パレスチナ側」として支持している人からは、「パレスチナ側を批判するのか」「抵抗運動はテロではない」「彼らは絶望をしているのだから仕方がないだろ」とお叱りを受けることがあります。しかも、ヤーシーン暗殺の直後では、どんな「テロ行為」も正当化されてしまいそうです。
 しかし僕は、「いかなる暴力にも反対」といっしょくたにするつもりはありません。何よりもまず、イスラエル国家が政策として正規軍を使って行なっている虐殺行為と、パレスチナの武装セクトが行なっている犯罪行為は、形式的には異なる水準にあるものであること、したがって、その一方でもって他方を相殺するような、あるいは一方でもって他方を正当化するような議論はまったく成り立たないということは、基本として確認しておきたいと思います。そしてまた、シオニストによる侵略がまず先にあり、イスラエル国家による占領・弾圧が先にあり、それに対するパレスチナ人の抵抗が発生したのであって、論理的にも事実的にもその逆ではないということも確認しておきたいと思います。つまり、断固としてイスラエルの占領と弾圧は非難されなければならないのであり、断固としてパレスチナ人の抵抗する権利は擁護されなくてはなりません。
 だから、僕が以下で、今回のファタハの行為を暴挙として批判するとしても、それは(一部の人が意図的に歪曲することはできるだけ避けたいのですが)、イスラエル側を擁護するための議論だとかパレスチナの大義を否定するための議論などではないということは、明白なことです。(長い「踏み絵」でした。)


 そもそもヘブライ大学には、少なからずのイスラエル・アラブの学生や、東エルサレムのパレスチナ人学生が勉強していることや、またその中には、大学の隣のフレンチヒルに住んでいる人がいること(殺された学生はその隣のショッファートに住んでいて、フレンチヒル近辺をジョギングしていたのだそうですが)、そして外見上はアラブ人とユダヤ人の区別がつかないこともあること(ミズラヒームのユダヤ人とアラブ人の場合。まあそれを言ったらアシュケナジームのユダヤ人と欧米からの留学生の区別もつかないのですが)、そういうことはみんな知っているわけです。「間違って撃った」なんて言い訳は成り立たないでしょう。
 アラファトの遣いが二回ほど彼の父に謝罪に訪れ、またアラファト自らが電話で謝罪をしたそうですが、それもおかしな話です。それじゃアラファトはユダヤ人市民への攻撃の指示を出していたのかってことになります。「間違ってごめん」という謝罪なのですから。それに、どう考えても、歩いている一市民を撃ち殺して、結果としてユダヤ人だったかアラブ人だったかで、その対応を考えるっていうのは、どんな理屈も通っていない。もちろんフレンチヒルは東エルサレムの「入植地」です。でも、そこにイスラエル・アラブが住んでいるという事実は、やはり事実としてあるわけで、それを「入植地攻撃」というふうには正当化できないでしょう。

 何度も繰り返されているレストランやバスへの自爆攻撃も、アラブ人が標的とされたわけではないにせよ、可能性として巻き込まれることは排除できないことですし、実際にこれまでに相当数が殺されてきているわけで(ヘタをすると半世紀で100人くらいにはなっているのではないかと思います)、事実上は「無差別テロ」と言われても仕方のないものだと思います。
 そして今回は、10人中3人がアラブ人だったとか、そういうことではなくて、一人撃ち殺してみたらアラブ人だったというケースなので、かえって武装セクトのやっていることの本質がよく見える形で表れていると思います。「不幸な事故」ではまったくないのです。これは、殺されたのがユダヤ人だけだったらいいということではありません。誰であれ市民を標的とするということの、繕いようがない誤りが露呈しているのです。
 そしてこのことで示されているのは、武装セクトの行為が、イスラエルの軍事力に対する「抵抗」であるとか、あるいは、やむにやまれずに行なった最後の手段であったというようなストーリー(それを全面的に否定をするものではありませんが)が、崩壊しているということです。

 僕の周囲のアラブ・パレスチナ人学生らも、このことを話題にしています。ファタハの建前としては「やってしまった、ミスした」ということだろうし、半分は後悔もしているだろうけれども、しかし残りの半分は、「まあいいさ」くらいには思っているだろう、と学生らは言っています。「結果としては、イスラエル・アラブを紛争の中に巻き込むことができたんだから、目的の一端は達成できた」というようなことは、密室の中で話し合われているだろう、と。それくらいに冷めた目で彼らはアラファトのことを見ているのです。


 ここからもう少し具体的に今回の事件に触れます。これまで固有名を一切入れなかったのは、誰が殺されたとしても言えることだということを、はっきりさせたかったからです。
 きわめて皮肉なことに、この殺された学生の父親は、ユダヤ人入植者らと法廷闘争をやってきたことで有名な弁護士でした。もちろん反対に、コラボレーター(対敵協力者)は殺されてもいいとか、そういうことではありません。しかし、そういう弁護士だからこそ、自分の息子が殺された直後に、「この残虐な事件でもっても、パレスチナ人の人権のために闘おうという自分の信念は変わらない」とわざわざ言わなくてはならない。あまりに悲壮です。
 皮肉はさらに続きます。この弁護士の父親、つまり殺された若者の祖父もまた、30年前にエルサレムで、ファタハの仕掛けたトラップ爆弾で殺されているのです。もし、家族を殺され絶望したパレスチナ人が自爆に走っているという「テロの論理」に乗るのであれば、どうなりますか。実の父親と息子をファタハに殺されているわけですから、彼がアラファトに対して何をやっても、誰も文句を言うことはできないでしょう。

 この弁護士については、まだ言うべきことがあります。彼の一家は、イスラエル・アラブだと言われますが、実はパレスチナ難民です。故郷の村を破壊されて、イスラエル領内で移住をしたために、「イスラエル・アラブ」と呼ばれ、国連の難民認定を受けることはありませんが、明らかに「難民」なのです。パレスチナ人としての苦難(ナクバ)の体験は、この一家にだって共有されていると言えると思います。
 さらに言えば、故郷の村を破壊されることなく残ったイスラエル・アラブの人びとも、そこに残ったがゆえに、ユダヤ人国家の中のマイノリティとしての苦難を味わっています。シオニスト国家によって苦しめられているという体験が、パレスチナ人を民族として結びつけているというのであれば、僕はイスラエル・アラブもパレスチナ人であるという立場を取ります。
 そのときに、もしファタハを始めとする武装セクトらが、イスラエルに住むパレスチナ人を射殺することを「ユダヤ人と見間違った」という一言で片づけるのであれば、それは一切の大義を捨て去るに等しい行為であると思います。イスラエルが分断を持ち込んでいるだけではなく、武装セクトが、さらに言えばアラファトが分断を持ち込んでいるわけです。


 ヤーシーン暗殺という大ニュースの前で、一人の「イスラエル・アラブ」の誤射殺などは、取るに足りないと思われるかもしれませんが、僕はその大ニュース以上に劣らず重要で深刻な問題をはらんでいると思っています。