パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2004.09.30

映画『凧』――国境に分断されたドルーズ

Posted by :早尾貴紀

今年の夏、ラマッラーのアルカサバ劇場で、ひじょうに印象に残る映画を観ました。レバノンで作られた映画で、レバノンとイスラエルの国境を挟む二つのドルーズ・コミュニティを舞台にしています。そして、イスラエルの国境警備兵もまたドルーズ兵。つまり、登場人物は全員ドルーズという設定です(役者はかならずしもそうではないのですが)。一度観て、打ちひしがれて、もう一回観に行ってしまいました。『凧』というタイトルの映画で、2003年の制作。(追記:日本では、『ラミアの白い凧』のタイトルで、05年に公開されました。)

 あらすじは、、、

 冒頭は、レバノン側の村の子どもたちが、国境地帯で、みんなで凧揚げをしているところ。主人公の女の子の凧がフェンスを越えて緩衝地帯に落ちる。鉄条網をなんとかくぐって取りに行こうとするが、そこは地雷原でもある。イスラエル側の国境警備兵が気がついて、(侵入防止というよりは)地雷原に入るのを阻止するために、威嚇射撃をする。

 国境を挟んだ反対側にあるドルーズの村とは、イスラエル建国以前は一つのコミュニティのように関係が近く、それぞれお互いの家族や親戚が住んでいる。彼らは、時間を決めてお互いに緩衝地帯の両側に揃い、お互いに双眼鏡とハンドマイクを持って、「会話」をする。緩衝地帯は国境の両側にそれぞれ100メートルくらいはあり、そうすると200メートルは距離がある。ハンドマイクを通した声が響き渡り、家族の安否や近況を伝えあう。
 イスラエルの国境警備兵の任務の一つは、この「会話」を記録すること。誰が何を話したのかを(たわいのないことまで含めてすべて)記録する。ある日、主人公の女の子ラミアの伯母が、イスラエル側の親戚にハンドマイクで報告をする。「うちのラミアは16歳になったぁー! 嫁に行く年齢だぁー! 誰か年頃のいい青年はいないかぁー!」レバノンとイスラエルの取り決めで、結婚のために国境を越えることだけは認められている。
 準主人公である、国境警備をしているイスラエル軍のドルーズ兵の青年が、その会話を聞いて書き取っている。彼は、監視という任務を通してラミアのことを知っている。想いも寄せている。その分、任務が上の空になる。上官に怒鳴られる。「国境の向こうの村にいくら親戚がいようとも、あの村はお前の敵なんだ!そのことを忘れるな!」

 ビデオ映像の交換で「お見合い」を済ませた二人が、結婚をする。しかしパーティの行列は国境まで。ラミアはそこから一人で国境を越えてイスラエル側に入る(女性の側が故郷を離れるのが常)。しかし、親戚同士で取り決められた、本人としては不本意な結婚を承服できないラミアは、決して打ち解けることがなく、しばらくした後に、結婚を解消してレバノン側に帰ることになる。またも一人で国境を越えて。緩衝地帯を一人で歩くラミアを、例のドルーズ兵の青年が追いかける。視線が交わされ、手が触れるが、しかし兵士は国境を越えることができず、引き下がるしかない。
 結婚が破断して元の村に戻ったラミアは、「傷物」「恥」として他の住民から蔑まれるが、パン屋のおやじに「ハラーム(忌々しい)」と言われたことで、伯母が激怒しパン屋に乗り込み、おやじをぶちのめす。

 ラミアは三たび国境を越える決心をする。今度は自分の意志で。誰にも告げずにひっそりと、あのドルーズ兵の青年のところに向かう。このあたりから、映画は現実とも幻想ともつかなくなる。前の二回とは異なり、正規のゲートを使うことができないから、冒頭で凧揚げをしていた場所の鉄条網をくぐる。鉄条網に手を触れ、一・二度、弾力を確かめるように押すと、唐突にスッと鉄条網が手を通り抜け、体も通り抜けてしまう。不意の特撮に気を取られていると、次の緩衝地帯の地雷原の先にある国境のフェンスの際で、地雷が爆発。館内の観客は呆然。爆煙が消えるとラミアの姿はなく、その瞬間、凧とともにラミアはあのドルーズ兵の勤務する監視塔に現れる。ラミアは、青年の周りを回りながら、青年に話しかける。「どうしてユダヤ人の格好をしているの?」「ユダヤ人じゃない。イスラエル兵だ。」「同じことよ。私、その制帽が嫌い。」そう言ってラミアは兵士のベレー帽を取る。「私、その軍服も嫌い。」兵士は迷彩の上着を脱ぐ。「その軍靴も、、、」。突然二人は監視塔からも姿を消し、最後には誰もいない監視塔の上空を凧が飛んでいる。

 おわり

 この国境地帯の舞台が、ものすごく美しい。そして、アラブ世界の大歌手フェイルーズの息子が音楽を担当。とにかく作品として美しい。

 このフェイルーズの息子ズィアドは俳優としても登場しており、彼を目当てで観に来る人も少なくないとか。役柄は、イスラエル兵の上官。といっても、怒鳴り散らしたほうの上官ではなく、青年に理解を示し、ウィットに富んだ(時おり頓智じみてワケのわからない)アドバイスをくれる。「彼女に会いたいか。方法はあるぞ。軍部に手紙を書くんだ。レバノン南部を併合せよ、と。そうすりゃ、あの村もイスラエルになる。」

 実際、映画の最中も、一晩にしてレバノン側の村の半ばまでイスラエル軍が侵攻し、村の真ん中に鉄条網が敷かれる場面が登場します。あるいは、映画の最中に、回想シーンのような映像が挟み込まれ、国境の鉄条網を越えて、小さな赤ん坊や棺桶が受け渡される場面もありました。
 この映画は、イスラエル建国によって作られた国境によっていったい何が分断されたのかを、ひじょうによく表していると思いました。親族のいる村が引き裂かれ、その国境を監視する兵士もまた親族。そしてその国境を、「嫁に行く女性」が一人で越える。またこの映画は、「ドルーズ」という一言でもって偏見(野蛮、田舎、裏切り者など)に晒される存在を、見事なまでに人間として、複雑な感情と過去と関係を背負った人間として描いていたと思います。同時に、ラミアやその伯母を通して、女性の存在をクローズアップしていたことは、改めて言うまでもありません。

 また観る機会があればいいのですが、日本ではまず上映されることはないでしょう。だからストーリーをやや細かく書きました。もちろんそれでも、ここに書かなかったことのほうが多いのは確かです。いずれビデオかDVDを入手したいと思います。

【追記】日本では上映はないだろうと思っていましたが、国際交流基金の「アラブ映画祭2005」で上映がありました。すばらしい。また、それを観た方が、「凧」に関連して次のようなブログを書いています。 海に恋して:凧とパレスチナ