パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2005.06.27

タクシードライバーSOS/占領政策いまだ継続中

Posted by :早尾貴紀

 先日の深夜、唐突にエルサレムの友人からの国際電話で起こされました。東エルサレムと西岸地区でタクシードライバーをしているアンマール(仮名)です。「久しぶり。オレだ、分かるか? そう、アンマールだ。元気か? どうしてる? 実は先月まで6ヶ月ほど収監されていたんだ。また西岸のパレスチナ人を乗せて走っていたのが見つかった。これで捕まったのが3回目だから、今度は長かった。それで、しばらく連絡の取れなかった友人らが、みんなどうしているかなと思って電話をしていたんだ。お前はいつエルサレムに戻ってくるんだ? 決まったら連絡くれよ。」

 そんな感じで近況を伝え合う会話で終わったのですが、ただそれだけのために国際電話をしてきたのかな、、、きっと何か困ったことがあったんじゃないか、という気がしていました。

 アンマールは、日頃は、東エルサレムと西岸の都市を結ぶ乗り合いタクシー(セルビス)のドライバーをしています。しかし彼には、スペシャル・ドライバーとしての、もう一つの「顔」がありました。

 僕が彼に知り合ったのは、2002年のこと。パレスチナへのいわゆる「大侵攻」で「和平」や「自治」が完全に吹き飛んで、全面的な占領がなされた時期でした。西岸地区各地の道路はメチャメチャに寸断され、各地にイスラエル軍のチェックポイントが設置され、地元の住民の移動は厳しく禁じられていました。地元の乗り合いタクシー、とくに西岸のパレスチナ人のタクシーは、チェックポイントを通過できず、ヘタに山道などを抜けているのをイスラエル軍に発見されれば逮捕されるという状況。そこでアンマールのような、東エルサレムのIDを持ち、そこで自動車登録をしている(ナンバープレートの色も異なるので外見からも一目瞭然)、そういうドライバーが必要になるし、ある意味で「活躍」する場となっていました。東エルサレムの「併合」を宣言したイスラエルによって、エルサレムIDはタテマエとしてはイスラエルに準じるものとされており、エルサレムの西岸各地の往復が比較的自由で、西岸内の入植者用バイパスを走ることも可能で、チェックポイントも通過しやすいのです。

 僕には、西岸地区の都市ナブルスに友人がいるし、また パレスチナ・オリーブ で日本にオリーブ石けんを輸出している石けん工場もナブルスにありました。しかし02-03年の時期はとりわけ厳しくナブルスへの行き来と街の出入りはイスラエル軍によって厳しく制限されていました。というのは、ナブルスは西岸で最大の産業を持ち、また大きな難民キャンプを三つ持っており、この二つの要因によって最も強い抵抗運動の拠点であるとみなされていたからです。

 そうした状況下で、ジャーナリストやNGO関係者らが当時ナブルスに行くのに、アンマールの手を借りたのでした。彼は、英語とフランス語に堪能であることを武器にして、積極的に自分を売り込んでいきました。東エルサレムの中心地、旧市街のダマスカス門近辺から西岸に向かう外国人を見かけると、積極的に自分から声をこんなふうにかけていきました。「西岸の中で移動に困ったら、オレに電話をしろ。ジェニンだろうとナブルスだろうと、どこにでも拾いに行ってやる。心配するな。」と。必ずしも自分がエルサレムから乗せていく客じゃなくとも、電話番号を教えておいて、「何かあれば力になろう」と。僕も実際、イスラエル軍の戦車や装甲車が走り回り、外出禁止令が厳しい時期に何度かナブルスに行っており、とくにその帰りに地元のタクシーがないときには、アンマールに頼ったものです。

 もちろん彼は、仕事としてやっています。NGO活動や取材のために被占領地に入っていく外国人をサポートしているということに彼はとりわけ誇りをもっているとはいえ、ボランティアではありません。でもそういうところにこそ、僕はかえって共感を持ちました。自分の日常の稼業の中で、あるいはそれを活かして仕事をすることで、パレスチナ人としてパレスチナのためにできることをしている。それで自らの生活をたてながら。

 僕がアンマールに依頼した仕事でいちばん印象に残っているのは、状況のもっとも厳しかった時期(02年)のナブルスから、現地NGOのパレスチナ人メンバーを日本に招聘するときのこと。ナブルスから一歩も出られないその人のために、大急ぎで日本のビザを僕が代理で取得し(領事館はテルアヴィヴ)、ビザと手配した航空券とともに彼を連れ出しジェリコ近くのヨルダン国境へ。その行程のすべてをアンマールに依頼しました。テルアヴィヴなどイスラエル側も自由に走れて、また西岸地区のナブルスやジェリコなどを短時間ですっ飛ばせるタクシー・ドライバーはそうはいません。「アンマール、悪いんだけれども、領事館からビザ発給の連絡があったら即座にエルサレムを出発したいから、今日は他の長距離の客は入れないで近場で仕事をしていてくれる? で、ビザが出たらテルアヴィヴに行って、その足でナブルスに向かってNGOメンバーを拾って、ジェリコまで連れて行って彼を降ろす。で、僕とそのままエルサレムに帰る。ナブルス・ジェリコ間は山越えが1、2箇所入ると思うけど。どう(笑)」。アンマールはこんなメチャクチャな依頼にも、「任せておけ。心配するな。大急ぎで走ってやる」。実際その日は、アンマールも僕もくたくたになって、夕刻のエルサレムに辿り着きました。

 こんな感じでアンマールは、「昔気質のオヤジ」タイプで、仕事によって信頼を得て、またその信頼によって厳しい情勢の中で仕事を得ていく。そうやってこの困難な時期を乗り切ってきたのだと思います。

 アンマールをはじめとするタクシードライバーらの状況が見るからに苦しくなってきた転機は、03年頃にありました。イスラエル軍は、アンマールのようなエルサレムIDを持つドライバーが、西岸IDのパレスチナ人を乗せることを禁止しました。これは、チェックポイントを通過しやすいIDと車を持つエルサレムのパレスチナ人が、その身分を利用して仕事をすることを妨害する措置だと言えます。万一、東エルサレムのドライバーが西岸のパレスチナ人を同乗させているところをイスラエル軍に見つかった場合、即座に逮捕・拘束、車は一定期間没収。釈放と車の返還に際して高額の罰金ということになります。

 エルサレムと西岸を往復するタクシー・ドライバーらにとっては、それまでは客の半分は西岸のパレスチナ人であったわけですから、顧客層をごっそりと失うハメになります。この占領政策は、西岸住民の移動手段を狭めると同時に、東エルサレムのドライバーらの仕事を奪うという、一石二鳥のものです。収入減を補うためには、リスクを冒してでも西岸住民を客に拾うか、反対に逮捕されるリスクを回避して細々と営業を続けるためには、客を乗せる前にドライバーが客のID検査をするか。

 アンマールも例外でなく、僕がまだエルサレムに在住していた04年夏までのあいだに、すでに2度、西岸IDの人を乗せたということで収監、車の差し押さえられ、高額の罰金を科せられていました。彼はこういうことも自嘲気味に言っていました。「こうやって捕まりたくなければ、自分たちが『警察』にならなきゃならない。パレスチナ人の自分たちがイスラエル兵みたいにパレスチナ人のIDをチェックするんだ。乗ってきた客に『IDを見せろ』と言って、西岸IDで特別な許可を持っていなければ、『お前は降りろ』と。」まったくひどい状況です。

 それからほどなく僕はエルサレムを離れ日本に戻りました。それから一年弱。

 まさかアンマールから国際電話がかかってくるとは当然予想などしていませんでしたが、しかしすぐに彼の声で分かりました。「オレだ、分かるか。」「え? あ、アンマールだろ!」「そう、アンマールだ。」という冒頭の電話での会話になります。「元気か? どうしてる? 実は先月まで6ヶ月ほど収監されていたんだ。また西岸のパレスチナ人を乗せて走っていたのが見つかった。これで捕まったのが3回目だから、今度は長かった。それで、しばらく連絡の取れなかった友人らが、みんなどうしているかなと思って電話をしていたんだ。」と。

 電話越しとはいえ、久しぶりに声を聞いて嬉しくもありましたが、しかし、近況を伝え合うための電話にしては、やや不自然な感じもしました。何かあったのではないか、言いにくい用件があるのではないか。

 そして数日後に、予感的中で、二度目の電話がアンマールからかかってきました。そして今度は用件をストレートに切り出してきました。「仕事がほしい。半年仕事をしていなかったので、金に困っている。車もポンコツで、妹婿と弟の車を交互に借りながら仕事をやっている有り様だ。誰かお前の知り合いのジャーナリストやNGO関係者で、ドライバーを必要としている人は知らないか。知っていたら、俺の電話番号をその人たちに渡して、必要ならオレに連絡が来るようにしてもらえないか。」

 エルサレムにいない僕にまで国際電話をかけてくるっていうのは、よほど困っているのだと思います。もちろん、このパレスチナの状況、「困っている」人は彼だけではないことも察せられます。似たような境遇のドライバーが数多くいることでしょう。  また、現在の「谷間」的な状況も、彼のようなドライバーにとっては、仕事が得にくい原因になっています。戒厳令下だった02〜03年とは異なり、形だけであれ「和平」下では、緊急にスペシャル・タクシーを使う必然性が少なくなり、アンマールのようなスタイルの仕事が成り立たなくなりつつある。他方で東エルサレムIDのドライバーが西岸のパレスチナ人を乗せられない状況は続いており、潜在的な客数が制限されている。そういう状況下で、仕事が減ってきているのでしょう。

 僕も電話ではかろうじて、「知っている限りのNGO関係者やジャーナリストに連絡はしておく。電話番号を知らせておいて、エルサレムや西岸でもし急ぎのドライバーが要るようなら、まずここに連絡をって。いまできるのはせいぜいそれくらいだ。あんまり役に立てなくて、ごめんね。」

 彼ほどにプライドを持っている人が、はっきりと「困っている」と、しかも国際電話をかけてきたというところに、困窮の度合いが察せられ、またそれに自分が手を差し伸べられないことに、心苦しさを覚えます。

 パレスチナの新大統領アッバースが就任し、イスラエルとの首脳会談が持たれ、和平協議が進展しつつあるように見えます。少しずつイスラエル軍の撤退が進んでいるかのような報道もあり、ガザからの入植地撤去のニュースも大きく報じられ、「和平機運」ではあるようです。でも、生活者の様子を見聞きする限り、何ら彼らの状況を改善することに繋がっているようには思えません。移動の自由が保障されているわけではなく、仕事も戻らない。つまり市民の視点から見れば、政治的にも経済的にもなんら改善の兆しは見えないのです。占領政策はいまだ継続中です。