パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2006.06.11

「暗殺作戦」の真の意図は?

Posted by :早尾貴紀

「誤爆」?、「事故」?

 イスラエル軍が「Targeted Assassination(標的を絞った暗殺作戦)」と呼ぶ要人暗殺の軍事行動は、現在では主に占領地パレスチナにおける武装組織各派に対して行なわれているが、あたかも「標的にのみ攻撃を限定している」かのような呼称が、クリーンで限定された軍事行動であるかの印象を与える。だが、一連の暗殺作戦のさなかに行なわれた、 一昨日6月9日にガザの海岸に行なわれた空爆 では、ピクニックに来ていたパレスチナ人の家族ら10人前後が殺害され、50人にも達する負傷者を出した。このすべてが民間人である。
 これに対してイスラエル軍は、「誤爆か事故だった」と弁明をしている。
 「標的」とされたパレスチナ人「テロリスト」らは、しばしば自動車に乗っている最中に砲撃を受けることが多い。建物の中や夜間であると、作戦が難しくなるため、白昼堂々と街中で軍事行動をする。そのため、同乗者はもちろんのこと、周囲を走っている他の自動車や、道路の両脇を歩いていた歩行者らが爆撃に巻き込まれることが少なくない。
 しかしそれもイスラエル軍からすれば、時に付随する「不運な事故」にすぎない。無差別空爆よりはマシだろう、と、そういわんばかりの弁明だ。

 だが、果たして本当にそれは「標的を絞った」軍事作戦であるなどと言えるのだろうか。無関係の犠牲者たちは、本当に「運悪く巻き込まれた」だけなのだろうか。今度のガザにおける民間人空爆虐殺事件の一週間ほど前に、相次いで、「暗殺作戦」に関する記事が出されている。おあつらえ向きに、「巻き込まれた民間人」についての論及もすでにあった。
 6月3日のCounter Punchに出ているRosemary Ruetherによる "Israel's Targeted Assassination Policy" によると、いわゆる第二次インティファーダの始まった2000年秋から数えて、233人のパレスチナ人が暗殺作戦によって直接的に標的とされ殺害されている一方で、それを大きく上回る353人の無関係な市民がそうした暗殺作戦とされる砲撃・空爆の巻き添えとなって殺害されている。もちろんこれは、その数倍〜10倍に達する負傷者数や、その他の軍事作戦による死者数は含まれていない(2000年以降にガザ地区でイスラエル軍と入植者らによって殺されたパレスチナ人の総数は3400人にもなる)。
 しかもこの死者数はもはやさっそく、それぞれ240人と360人に上方修正しなければならないありさまだ。

二週間前の「巻き添え」事件

 また、6月2日付けハアレツ紙週末付録で、ギデオン・レヴィは、5月20日にガザで行なわれた暗殺作戦に巻き込まれた一家のことを詳細に書き記している。イスラエル空軍は、自動車に乗って移動中のイスラーム聖戦のメンバー一人を殺害するために、街中で砲弾を発射。たまたま隣を走っていたある一家の自動車にも被害が及んだ。大家族で乗り込んでいた車の中には、祖父母やその孫たちも乗っていた。生き残った28歳の男が失った家族は、自分の母親と妻と7歳の息子だった。他に彼の姉と叔父と3歳半の娘が重体でイスラエル側の病院の集中治療室に送られたが、同伴することは認められなかった。いずれも意識不明か全身麻痺の状態だ。彼のいとこと、2歳のもう一人の息子は、彼と同様に命に別状はなかったが、みな背中や手足に爆弾の金属片が入ったままである。
 レヴィ記者は、イスラエル軍の責任者が、冷徹に、形式的に「何が起きたのか、事実関係を調査中である」としかコメントを出さないことを、痛烈に批判している。「何が起きたのかを調査だって? 何が起きたのかは明白だ。」と、上記の家族たちのことを、そして爆撃を受けたときの様子を、丁寧に記している。
 そしてそれに対しむしろ、「軍のパイロットが、いったいどんな顔をして、ガザ市の中心部の込み合った通りのど真ん中に、殺人的なミサイルを打ち込むボタンを押したのかのほうが知りたい」と皮肉っている。
(さらにレヴィは11日にも、その後のこの家族についての記事をフォローする記事を書いており、それによると、イスラエル側の病院で治療を受けていた被害家族らは、生命の危機を脱したと判断され、ガザに送り返されることになったとのこと。しかし、ガザには継続した治療やリハビリを行なう十分な設備がなく、途中で責任放棄をして放り出すかのようなイスラエル側の対応に、家族らはショックを受けているという。)

「暗殺作戦」の意図・効果への疑問

 そしてその記事からわずか一週間後の今度の虐殺事件だ。この一週間も、ガザの住民への攻撃と、暗殺作戦はずっと続いていた。この家族たちが海岸で爆撃を受ける直前までの一週間で、民間人と武装組織のメンバーらの死者数は10人に達する。そして今度の事件は、武装組織への暗殺作戦を連日行なっていたそのさなかでのことだ。その直接的な延長線上に、いや、その攻撃の一部として今度の空爆があるのは明らかだ。これをただの「事故」などという言い訳は成り立ちようがない。
 それよりも、むしろイスラエルの暗殺作戦の真意を、もう少し穿って考えなければならないように思われる。そもそもイスラエルは、カッサーム・ロケット程度のことしかできないパレスチナの武装セクトの攻撃に対して、本気で「報復」をしようとしているのだろうか。メディアの言うように、それを「報復」という一言で本質を見ていいのだろうか。そして、武装組織各派の主要メンバーを、一方的に(逮捕・裁判という手続きを度外視し)次々と暗殺していくということは、イスラエルの治安確保にとって、効果的なのだろうか。
 2000年から数えただけでイスラエルは240人のパレスチナ人武装組織のメンバーを暗殺の標的として抹殺してきたが、そのことで武装勢力は弱体化しただろうか。暗殺作戦の効果として、イスラエルへのロケット攻撃を断念するという傾向が見られただろうか。答えは明確に否だ。そんなことはイスラエル軍自身がよく分かっていることだ。イスラエルは砲撃によって「(力による)平和」を手にすることを目論んでいるのではない。

「テロリスト」を「つくりだす」こと

 そうだとすれば、むしろその逆のことを意図的に行なっているとしか考えられない。つまり、パレスチナの武装組織を挑発し、攻撃を誘発し、そのことで「これだからパレスチナ人とは和平交渉ができないんだ」という、占領の論理を正当化する事実根拠を捏造しようとしているのではないか。ハマスはこの一年以上、イスラエルへの武力攻撃を自粛していた。ハマスが勝利したパレスチナの議会選挙以降のこの数ヶ月、ロケット攻撃をしていたのはハマスではなく、ハマスに敗北しライバル心を剥き出しにしているファタハ(の一派)であった。しかし、この数日のイスラエルによる度重なる血なまぐさい攻撃によって、とうとうハマスさえもイスラエルへの攻撃の再開を宣言し、停戦の破棄を決めた。
 まさにこれこそが、イスラエルが意図していたことではないか。ハマス政権(やファタハでもどの政権であれ)が事実上武力行使を自粛し、占領の真の終結をイスラエル側に求め続けるという「正論」を貫き続けることこそが、イスラエルにとっては最も困ることであったはずだ。つまりは、西岸地区と東エルサレムから一つ残らず入植地と基地と検問所と隔離壁を撤去するという、きわめて真っ当な要求を受け、しかもハマスが武力を放棄ないし自粛していようものなら、その要求を拒絶しているイスラエルこそが不当であるということが、世界の目に明らかになってしまう。
 したがって、イスラエルにとっては、パレスチナのすべての組織は「テロリスト」でなければならない。和平交渉の相手であってはならないのだ。
 そうであれば、イスラエル軍がパレスチナの武装組織の幹部を、恣意的に暗殺しつづけることは、彼らを「挑発」するという点からはひじょうに合理的でさえある。しかも暗殺をする際に、周囲に被害が及ばないように、無関係の人びとを巻き込まないようにと、慎重になる必要はない。むしろ慎重さは作戦遂行にとっては、邪魔でしかない。確実に「標的」を殺害するには、そしてその殺害を効果的にアピールするには、逃げようがない白昼の、しかも衆目のあるところで、十分すぎる破壊力でもって派手にすることこそが理にかなっている。
 つまりは、「巻き込まれた民間人犠牲者」らは、不運にもたまたまそこに居合わせただけということではないだろう。民間人の犠牲者は暗殺作戦に不可分な一部であると言うべきなのだ。暗殺作戦で殺された240人の1.5倍にも達する360人もの民間人犠牲者ら(繰り返すがこの数字はいわゆる暗殺作戦の過程で殺された人びとに限定された数字であり全死者数はその10倍にもなる)は、事故に巻き込まれたのではなく、暗殺作戦の一環で、それくらいの死者数が出ることを織り込み済みの上で殺されたのだ。
 我慢の限界を超えたハマスは、まんまと挑発に乗って、「報復攻撃」を宣言する。イスラエル政府はニンマリとし、それみたことかと言わんばかりにいつものセリフを繰り返す。「やはりハマス政権のパレスチナはテロ集団だ。和平を望まないパレスチナ人らとは交渉できない。隔離壁で一方的国境画定をするしかない。」と。

 こうしてイスラエルは、パレスチナにおける入植地と隔離壁を、つまり占領を正当化する理屈(屁理屈)を手にすることができる。イスラエルは昨夏、「ガザ占領は終結した」として、入植地撤退ショーを世界に披露した。だがそれ以降も、ガザに平穏が訪れたことはなく、相も変わらずイスラエルはガザ地区の人びとの命を、パレスチナ占領の継続のための材料として使いつづけている。そのことこそが非難されなければならないと思う。