パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2006.08.07

「イスラエル市民」犠牲者の半数はパレスチナ人である――ヒズブッラーとイスラエルのあいだで

Posted by :早尾貴紀

 8月6日現在で、ヒズブッラーがイスラエル領に打ち込んだロケット攻撃によって死亡した「イスラエル人」市民は、30人。少なくともそのうちの16人が、イスラエル国籍を有するパレスチナ人、いわゆる「イスラエル・アラブ」である。つまり、約半数の犠牲者がパレスチナ人であることになるが、これは現在のガリラヤ地方のユダヤ人とパレスチナ人の人口比(およそ半々)を反映したものだと言える。
【追記:前のノートから引き続き、いつまでも追記をし続けなければならないのか。10日にはガリラヤのアラブ・パレスチナ人の村、デイル・アル・アサドで民家にヒズブッラーのロケットが直撃して、母子が死亡。10日現在で、約40人のイスラエル市民の死者の内、半数の約20人がアラブ・パレスチナ人であるというありさまだ。】

 こうしたイスラエルのレイシズム的政策(主にユダヤ人専用の町の開発特権と、パレスチナ人に対するさまざまな妨害・差別)の結果、この地方のユダヤ人とパレスチナ人の割合は、およそ半々となってきている。とはいえ、なお地域人口の半数がパレスチナ人である以上、その地域にヒズブッラーから雨霰のごとくミサイルが飛んでくるわけだから、犠牲者の半数が、この地域に住むアラブ・パレスチナ人となることは、必然的なことと言える。

 このことについて、ロケット攻撃をしてるヒズブッラーが知らないはずはないだろう。指導者ナスルッラーが、最初のパレスチナ人死者がナザレで出たときに、形式的に「遺憾の意」を表明してはいる。だが、そのことで何かヒズブッラーの戦略が変わるなどのことがあったわけではなく、むしろ次々とパレスチナ人の死傷者が増えていくこととなる。「人口の半分がパレスチナ人である地域」にミサイルを撃ち込んでいるという自覚は極めて希薄であると言えよう。
 他にもパレスチナ人の犠牲者が多くなる要因は考えられる。同北部地域のユダヤ人の町やキブツが、ミサイル到達の事前警報システムや、各家やアパートや地域にある地下シェルターなどを備えているのに対して、アラブ・パレスチナ人の村にはそうした設備がない。これは、セキュリティ設備において「差別的対応」があるということでもあろうが、「同じアラブ人のところは狙われないだろう」という警戒の欠如も作用しているかもしれない。
 また、ユダヤ人住民は、比較的容易にイスラエルの中部や南部や国外に(時期的に夏のバカンスも兼ねて)避難できているのに対して、アラブ・パレスチナ人は行き場がない/少ない、という事情がある。イスラエルが、徹頭徹尾「ユダヤ人の国家」である以上、アラブ・パレスチナ人住民は望まれざる「他者」であり( 「イスラエルのアラブ人排斥傾向」 参照)、彼らを歓迎してくれる土地はない。また、家族全員で長期的に避難をするには当然多額の費用がかかるが、相対的に貧困なパレスチナ人らにはその費用を捻出できない、という背景もあろう。

 こうした「あいだ」に捨て置かれたアラブ・パレスチナ人は、イスラエル政府からもヒズブッラーからも気にかけられることはない。イスラエルは、「イスラエル国民の犠牲者」を訴えたいためか、被害報道においてとくに「区別」をしない。もちろん「国民」としての死者に差別はないはずだ。だが、生きている間にはどこまでも徹底して差別にさらしておきながら、都合のいいときだけ「イスラエル人」にカウントするのは、ダブルスタンダードにすぎない。
 またヒズブッラーは、イスラエルに攻撃を受ければ受けるほど、それに比例をして「抵抗運動=武装闘争の正当性」を獲得していくかのごとく、いっそう無差別のイスラエル攻撃を強めてくる。その攻撃の犠牲者の半数がアラブ・パレスチナ人であるという事実は、ヒズブッラーに攻撃自制ないし戦略変更を促す要因にはならないらしい。

 だが、実際に攻撃にさらされているイスラエル・アラブ(のパレスチナ人)たちは、ヒズブッラーとイスラエル政府に対して、どう感じているのだろうか。もちろん個々人それぞれに温度差はあるだろうし、それ以上に、その「本心」をうかがい知ることはいろいろな意味で難しいだろう。実際問題、彼らはひじょうに微妙な立場に置かれており、不用意な発言は、単純化された色分けをもらたし、同じアラブ人としてヒズブッラー支持なのか、イスラエル国民としてイスラエル政府支持なのかという、立場表明を強引に求められてしまう結果となるからだ。
 そのため、メディアを通して聞こえてくる声は、そのメディアの立場・性格を反映せざるをえない。つまり、発言をするアラブ・パレスチナ人は、自分の発言が誰に向けて報道されるかによって、トーンを変えざるをえないのだ。
 例えば4日付のイスラエル紙ハアレツには、一人のパレスチナ人によるナスルッラー宛の「公開書簡」が掲載されている。そこでは、ヒズブッラーが、いかにイスラエル国内に取り残されたパレスチナ人の困難な立場に無理解であるかが指摘されている。その声は、決してイスラエル支持、ヒズブッラー批判というふうには分類はできないが、しかし、一定の批判をヒズブッラーに加えていることは否定できない。もちろんそれが可能であり、またそういう発言が「求められて」いるのは、それがハアレツとイスラエル紙であるから、という背景もある。ユダヤ人ないしは国際社会を意識した発言と言えよう。
 他方で、アルジャジーラをはじめとするアラブ系メディアに登場するイスラエル・アラブの声は、「責任はイスラエル政府にある」という、いわば「模範解答」になってしまう。これはもちろん、内外のアラブ人向けの発言だ。

 それよりも、むしろ留意すべきは、イスラエル・アラブが、まさにその呼称どおり、「引き裂かれている」ということだ。彼らが、現在さまざまな場面で、「国家への忠誠」という観点から、疑念や避難の目を向けられているのだ。一方で、イスラエル国民としてヒズブッラー批判を声高にしなければ、「非国民」として、そして「敵」として、白眼視されてしまう。
 他方で、どう見ても(極度の親イスラエルの立場の人間でもなければ)、この「戦争」が、一方的なイスラエルのレバノン「侵攻」であり、被害の規模からしても、比較にならないどころか、イスラエル政府・軍に支持を与えるべき点は何一つないことには、疑いの余地がない。にもかかわらず、ヒズブッラー批判だけが、踏み絵のように迫られるのは、不公正・理不尽でしかない。
 だが現実には、イスラエル社会のなかに生きていかざるをえないアラブ・パレスチナ人は、そうした理不尽さを抱え込まざるをえない立場にある。

 最後に、原則的立場を一貫させた、イスラエル国内の反シオニズムの団体の声明文を紹介しよう。
 まずは、民主的行動機構が発表した、 「一方的措置が戦争をおこした」 だ。この団体では、イスラエル国内のパレスチナ人とユダヤ人が、反シオニズムの立場でいっしょに活動をしている。いわゆる、なあなあの「共存路線」(シオニズムの枠を崩さない)とは異なり、ユダヤ人メンバーの側が、シオニズム国家におけるユダヤ人自らの特権性を否定し、シオニズムを明確に人種主義・帝国主義と位置づけている。今回のイスラエルによるレバノン侵攻と、同時にガザでの暴挙に対する彼らの立場は一貫して明快で、イスラエルは領土的野心から、軍事力に依拠した一方的措置を最初から画策していた、それがもたらした侵略戦争である、というものだ。
 もう一つも、この団体と提携をしている、アラブ人労働者の団体、「ワーカーズ・アドバイス・センター」による声明、 「破滅的戦争を止めよう!すべての陣営の労働者が戦争の代償を支払わされている」 だ。この声明でもやはり、イスラエルが最初から「和平」を拒否していたことこそが問題であり、イスラエルが境界線からの撤退を、つまり占領の終結を目指してこなかったことが、この戦争をもたらしたし、そのことで犠牲を強いられているのは、労働者・民衆なのだということが指摘されている。

 問題はイスラエルの領土的野心だ。それによって、多くのレバノン人が犠牲にされているのと同時に、イスラエル領内のパレスチナ人もまた危険に晒されている。そのことについて、ヒズブッラーにももちろん責任があるし、厳しく非難をされるべきである。イスラエル軍に攻められることで、ヒズブッラーの活動は、かえって支持を得ているが(その意味では、イスラエルとヒズブッラーは、敵対しつつも、その敵対行為のおかげでそれぞれに国内的支持を伸ばすという、ある意味の共犯構造を持ってさえいる)、イスラエル国内にいるとはいえパレスチナ人を次々と殺してかまわないとする姿勢は、その大義を失わせるに十分だ。
 しかし間違えてはならないのは、イスラエルの野心的な帝国主義と人種主義こそが、このいまの事態をもたらしているということだ。イスラエル・アラブは、多くの場合、「どちらに忠誠を尽くすのか」と迫られがちであるが、そうあってはならない。