パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2006.11.11

「イスラエル・アラブ」のアパシーとシニシズム

Posted by :早尾貴紀

 ガザ地区ベイト・ハヌーンでイスラエル軍によるパレスチナ人虐殺が進行している11月の上旬、ウンム・ル・ファヘムとラーミという、ガリラヤ地方あるいはその周辺の村を泊まり歩いていました。場所はイスラエル領になるので、「イスラエル・アラブ」と呼ばれるパレスチナ人の村なのですが、、、ガザも「パレスチナ」、ここガリラヤも「パレスチナ」、そう言うためには、あまりの「断絶」の大きさを痛感しました。

 以前、東エルサレムでフラットメイトとして同居していた二人の元ヘブライ大学生が、卒業後それぞれの出身の村に帰り、いまは仕事をしています。今回は、その友人を訪ねたのです。
 ウンム・ル・ファヘム出身の友人をA君。ラーミ出身の友人をB君と、とりあえずします。年齢はいずれも30歳くらい。二人とも平均的な「イスラエル・アラブ」と比べると、政治意識が高く、「パレスチナ人意識」も高い。そのため、エルサレムでいっしょに住んでいたころは、毎日とまではいかないまでも、なにか機会があるごとに議論が絶えませんでした。ただ比べると、A君は、頭ではさまざまな問題が分かっていて、聞けばいつも鋭い見解を言ってくれるけれど、同時に現実の変わらなさ、自分の無力さに見極めがついてしまって、かなりシニカルになってしまっている。対してB君は、まだまだストレートに熱く、いつも活発に動いていました。分離壁反対のデモにもいっしょに行きましたし、壁を乗り越えてアブー・ディースにあるアル・クッズ大学の学生らとも交流していました。そのため、二人の価値観は、例えば自分自身のパレスチナ人アイデンティティを信じている点などでも一致しているにもかかわらず、しかし、二人は、しばしば「静」と「動」、あるいは「冷」と「熱」のように対立していました。

 その二人がそれぞれの実家に帰り働いているところに、僕は旧交を温めに訪れました。ちょうどそのタイミングで、以前からガザ再展開を進めていたイスラエル軍が、ベイト・ハヌーンで虐殺としか言いようのない軍事攻撃を開始し、そのニュースが気になっていました。死者は20人、30人と増え続ける。避難先のモスクが破壊され、女性らも容赦なく殺されていく。
 そんななかでの北部のアラブ人の二つの村の訪問。友人のほか僕らと同じ年齢層(20代〜30代前半)の若者らとたくさん会いましたが、ガザの情勢に対するまったくの無関心ぶりを見せつけられました。その様子、雰囲気が本当にそっくりだったことも印象的。村では、「若者たち」が仕事や学校のあとに集まれる場所は本当に限られていて、ウンム・ル・ファヘムでもラーミでも、まったく同じような場所に連れて行かれました。それは、「水タバコ(ナルギーラ)喫茶+ビリヤード+サッカーのスクリーン観戦」のお店。
 若者ら(もちろんそんなところに出入りするのは男だけ)は、日が暮れると集まり始め、夜中までたむろしています。A君とB君にはそれぞれの村で別々に会ったにもかかわらず、二人は同じことを言って同じようなその場所に僕を連れて行きました。「ここにはすることがなにもない。行く場所もない。うちにいるか、外に出るならあそこしかないな。」
 これが西岸などのもっと田舎の村なら、家族揃っての晩ご飯となるのでしょうけれど、ここではそんなこともありません。夜も家族ですることは別々です。
 家ですることもなく、また同年代のアラブ・パレスチナ人たちの村の日常生活に接したいということもあり、ナルギーラを吸いに出かけました。ナルギーラについては、東エルサレムにいたときには、週に2回くらいはアパートでいっしょに吸っていましたので、懐かしい思いもありましたし。

 どちらの村でも、行くと20〜30人の若者らが、イスに座りナルギーラの煙をくゆらせながら、白壁に映し出されたサッカー観戦やおしゃべり。あるいはビリヤードに興じたり。
 そうしたなかで、僕と友人もナルギーラを注文し、イスに座ってお互いの近況交換をしつつ、次第にナルギーラを回し飲みするうちに、エルサレムでいっしょに住んでいたころのように、このあいだのヒズブッラーとの戦争のことや、いまのガザのことなどについても話をするようになりました。
 ウンム・ル・ファヘムでは、A君が、昔のままのシニカルな口調で言いました。「周りを見ろ。誰もガザのことなんか気にしちゃいない。連中はニュースさえほとんど見ないぞ。気にしたところでどうにもならない。だから、見ないように、聞かないようにしている。そういうのが、もう無意識の習慣になっているんだよ。」

 ラーミではB君が、まったく同じようなナルギーラ喫茶に連れて行ってくれました。「ない。何もすることがない。ナルギーラ吸いに行くか? え、昨日もウンム・ル・ファヘムで行ったって? つまりどこでも同じなんだよ。」
 さほど大きな村ではないので、そういう場所に集まる若者らはみんな顔見知りです。そして、突出してラディカルな立場をとるB君は、友人たちのなかでも浮いた存在です。そして彼が、(こちらも昔のままに)声のトーンを次第にあげて持論をぶっている最中、「ここ、パレスチナでは、」と言うと、隣のテーブルから顔見知りが、「ここはイスラエルだ」とツッコミ。B君が、「じゃあ『48年のパレスチナ』では、」と言い直しました。
 イスラエル建国によってイスラエル領になってしまったパレスチナを、こちらではよく「48年の土地」などと言います。それで彼はそう言い直しました。
 また話の流れで、B君が「俺たちパレスチナ人は、」と言うと、またすかさず隣から、「イスラエル人だ」とツッコミ。さすがに今度はB君も「それはお前の見方だ」と反論すると、逆に、「誰もパレスチナ人だなんて思ってない。お前だけだ」と追い打ちを受けてしまいました。

 2000年からの第二次インティファーダはガリラヤ地方にも飛び火し、「イスラエル国民」でありながら厳しい弾圧を受け、多くの死傷者を出しました。東エルサレムが西岸から完全に切り離され西岸・ガザのパレスチナ人がアルアクサ・モスクなどに訪問できないのに代わって、ガリラヤ地方からの訪問者が急増するという現象も見られました。そうしたことから、イスラエル・アラブの「パレスチナ人意識」は高まった、西岸・ガザとの連帯意識が高まった、とも言われました。
 しかしそれからもう5年くらいの歳月が過ぎています。今回、北部のアラブ・パレスチナ人の村を歩いて、若者らの「日常」に接し、友人らのやりとりを目の当たりにし、ひじょうに強いアパシー(無関心)とシニシズムを感じました。
 もちろん、そういう状況に追い込まれている。変わらない現実、変わらないどころか、ますます悪化し固定化されていく占領。分離壁や検問所によって、西岸は確実にガリラヤ地方との接点を失っていっています。いま、「イスラエル・アラブ」で、直接西岸に足を踏み入れる機会がある人は極めて限られているでしょう。そしていま、「想いを馳せる」ことさえもが難しくなってきているように思います。