パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2006.12.05

ガリラヤの若者たちが西岸地区でオリーブ収穫

Posted by :早尾貴紀

 11月に入り、オリーブの収穫シーズン。しかし、分離壁の建設が進むヨルダン川西岸地区では、農地が壁によって潰されたり、切り離されたりして、農作業が困難な状況が続いています。オリーブの収穫シーズンだというのに、畑に近づけずに、収穫時期を逃して腐らせてしまったり、盗られてしまったり、というケースもあるそうです。
 そうしたなか、イスラエルのガリラヤ地方で農業NGOの活動をしている 「ガリラヤのシンディアナ」 と、その提携団体であるアラブ人労働者の組合を運営している 「ワーカーズ・アドバイス・センター(WAC)」 の合同企画で、上記のような困難な状況に置かれている西岸の一つの村に収穫支援に入るイベントがありました(なお、上記の二団体については、日本語では パレスチナ・オリーブ のサイトから活動を知ることができます)。
 シンディアナは、もともとイスラエル領となったガリラヤ地方のパレスチナ人の農業復興を通して、土地がイスラエルによって収奪され「ユダヤ化」されるのを阻止するといった活動をしてきました。いかに品質のいいオリーブ・オイルをとれるようにするかといった、農家向けの講習会などもしています。また、WACは、イスラエルで失業率の高いアラブ人労働者(一般にイスラエルのユダヤ人の失業率が1割弱、アラブ人では2割以上と言われます)の組合をつくり、雇用口の確保と労働環境の改善のために活動をしています。いずれも、「反シオニズム」という原則をもち、イスラエルの人種差別的政策と闘っていると言えます。
 彼らの本来の活動は「占領地支援」ではないのですが、今回は例外的に、「収穫デー」として、一日限りのイベントで西岸で援農をしました。ガリラヤの南側にあるウンム・ル・ファヘムとコフル・カラの二つの村にいるWACの若手メンバーら約30人(アラブ・パレスチナ人)と、ハイファやナザレやテルアヴィヴで活動をしているシンディアナやWACの運営メンバーら約10人(アラブ人もユダヤ人も)が、大型バスを一台貸し切りにして、西岸地区のなかへ。

 収穫に参加する村は、ベイト・アイナーン村。エルサレムとラマッラーの中間地点からやや西側くらい。このあたりは、多くのユダヤ人入植地があり、そのために分離壁もかなり入り組んでおり、厳しい状況に置かれています。オリーブの畑と住宅地が分離壁で分断され、自分の畑に近づくのにさえ許可証が要り、行ける日や時間帯が制限されてしまうこともあります。そこで、許可の出ている限られた日数・時間で、人海戦術的に収穫をしてしまおうというわけです。
 ベイト・アイナーン村に着くと、私たち40人は、各8人程度で5グループに分かれ、5つの農家にそれぞれ合流し、手摘みでオリーブの収穫をしました。これは単純作業なので、一粒一粒、取り残しのないように手早くやっていくのは、実はとても骨が折れます。力仕事ではありませんが、集中力を切らさないで、つまりテキトーに目についたものを穫るのではなく、全部残さずに、というのはなかなか難しい。みんなでわーっと一つのオリーブの樹の収穫をしては、次の樹に移る、の繰り返し。
 しかし、1本の樹をしっかりと終わらせるのには1時間はかかる。そうすると、丸一日朝の9時からやって夕方4時までとしても、休憩を抜いて実働6時間でせいぜい6本がいいところ。5グループで概算30本。もちろん家族たちとしてはそれなりには助かったことでしょう。しかし、広大なオリーブ畑を見ると、はたしてどれだけの助けになったことか、心もとない。

 そこで思ったのは、むしろこのイベントの真の目的、隠された第二の目的というのは、ガリラヤの若者たちを西岸のなかに連れて行くことではないのか、ということ。若いイスラエルのアラブ人たちは、もちろん「パレスチナ人」であるとはいえ、西岸やガザから切り離されて、「パレスチナ人アイデンティティ」からも切り離されつつあります。そして、西岸やガザで起きていることに対する無力感・距離感から、政治的に無関心になってきている。これは根の深い問題です。そして、こうした分離壁の状況が続けば、ますますその溝は大きくなるでしょう。
 今回のことは、こうした状況に対する小さな抵抗の一つにすぎませんが、とても新鮮な現場に接することができたような気がしました。「新鮮」と感じる時点で、すでに「溝」が前提になっているわけですけれども、、、
 印象的なのは、収穫支援を始めた若者たちと地元の村の人たちとが、まるで外国人に接するかのようによそよそしく自己紹介から入っていったことです。若者たちがどこに住んでいるのか、何の仕事をしているのか。逆に村の人たちに対しては、ここの村がどういう状況にあるのか、家族たちが普段何をしているのか。もちろんそこからしか話は始まらないでしょう。オリーブの樹の下で、村の人たちが用意してくれたお昼ご飯をいっしょに食べて、また収穫作業。丸一日もいれば、それでも少しは打ち解けてきました。
 印象的なのは、使う言葉です。ガリラヤの若者たちと村の人は同じ「パレスチナ人同士」でアラビア語。でも、イスラエル側で暮らすパレスチナ人は「アラブ系イスラエル人」とも言われるように、日常生活にヘブライ語がだいぶ浸透しているため、西岸に来て地元の人と話をするときにも、無意識に応答するときにヘブライ語が混じります。「ベセデル」や「ヨッフィー」などですが、それは日本人が普通に「O.K.」と言うのと同じです。
 それから、シンディアナとWACのユダヤ人メンバーらは、基本的にみんなアラビア語ができるのですが(彼らの認識では、ヘブライ語は支配者の帝国主義の言語であるから、パレスチナ人にヘブライ語を話させるのではなく、ユダヤ人がアラビア語を学ぶべき)、まだこの組織に入ったばかりでアラビア語のできない女性がいて、彼女は村の同い年くらの女性らと、お互い英語で話をしていました。西岸地区のなかでも、年上の男性たちは、かつてイスラエル側で働いていた経験があったりして、ヘブライ語を解する人もいることにはいるのですが、女性の場合だと皆無です。共通言語は英語になります。
 こういうところで交わされる言語にも、パレスチナ/イスラエルの複雑な状況が反映していました。

 帰りはまたバスに乗り込み、西岸地区を出ます。イスラエル軍の検問所は、西岸に入る方向は緩く、イスラエル・ナンバーの車だとチェックなしだったりするのですが、やはり西岸側から出てイスラエル側に入るときにはうるさい。兵士がバスに乗り込んできて、身分証カードを出させます。そうしたこともまた、このイベントに最初から「予定」されていた「体験学習」の一部のような気がしました。
 それにしても、この「分断状況」がさらに蓄積されたときに、今後どういう事態を生み出すのか、そしてそれに抵抗する側の運動の積み重ねがどれだけの効果をもちうるのか、それは今回の滞在やイベント参加だけでは見えてはきません。この日は貴重な場に居合わせることができたと感じつつも、どうにも不安は払拭できませんでした。