パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2006.12.18

平等な共生とは?

Posted by :早尾貴紀

 イスラエル北部、アラブ・パレスチナ人の多い地域を訪れていたときのレポートの続きです。たまたまウンム・ル・ファヘムの友人宅に滞在していたときに、その隣村のコフル・カラにある、アラブ人とユダヤ人の共生を理念とする学校、 「Hand In Hand」 を見学する機会がありました。友人の甥が通学しているので、友人が車で送っていくときに、ついでだからと友人が校長に話をして、校内と授業風景を見せてもらうことになりました。
 もらったパンフの表紙にも「共に生き、共に学ぶ。アラブ人・ユダヤ人双方の子どもたちにバイリンガル・多言語教育」と謳っているとおり、各クラスにはアラブ人とユダヤ人の児童がほぼ同数いて、そしてアラブ人とユダヤ人の教師が各一人ずつおり、どちらの教師もアラビア語とヘブライ語の二言語を操っている。朝の挨拶も二言語で行なっていました。
 ただ、しばらく眺めていると、やはりそれでもヘブライ語のほうが優勢であるように見えたのですが、それは、社会全体で見たときにはヘブライ語のみが国語として特権的な地位をもっていることの反映であり(アラビア語も公用語ではあるけれども現実的には圧倒的にヘブライ語社会である)、この学校の教師の言語能力を比較したときにも、アラブ人の教師は完璧にヘブライ語を使いこなせるのが当たり前であるのに対して、ユダヤ人の教師のアラビア語は「ある程度」である場合が多いためでしょう。もちろん、この「ユダヤ人国家」の「ヘブライ語社会」のなかでユダヤ人がアラビア語を使うということだけでも大切なことですし、アラブ人がヘブライ語を否応なく身に付けるのに対して、ユダヤ人の場合はかなり意識的でなければ学ぶとこはできません。そうした現状のなかで、この学校では最善を尽くしていると言っていいと思います。大筋においては、学校・授業運営での「平等」を維持できていたのではないでしょうか。

 甥を送っていった友人に、学校のことをどう思うと聞くと、「まあいいんじゃない」というテキトーな返事。「共生しなきゃならないのは否定できない現実なんだから、そのための技術を身につけるのは、子どもたちにとっては必要なことだろう。本当の平等とは何かとか考えたらキリがないし、運営上の粗捜しをすることもできるだろうけど、理念だけ深めたところで身動きができなくなる。お互いに両方の言語や文化を学ぶことは悪いことではない。そうだろ?」
 現実主義者としていかにも彼らしい意見でした。

 その翌日、同じくガリラヤのラーミ村にいる友人のところを訪れました。その友人は、言わば理想主義者です。エルサレムでいっしょに住んでいたときから、いつもラディカルにものごとを見通す姿勢を崩さず、多くを僕に教えてくれた友人です。その彼に、この学校のパンフレットを見せて、「昨日、この学校に行って、なかを見せてもらった。どう思う?」と聞いてみました。
 「一人一人の子どもたちにとっては、大切な経験になるとは思う。だから否定はしない。けれども、あえて言わせてもらえば、社会に厳然としてある差別構造をかえって隠蔽することにならないか? 実際には平等なんかじゃないのに、『私たちは平等です、平等です』と言いつづけ、『ここに差別はありません、差別はありません』と、何百回、何千回と繰り返したら、現実は何も変わっていないのに、本当に差別がなくて平等な社会なんだと人びとに思い込ませることになる。適切な喩えではないかもしれないけれど、『オオカミ少年』の逆バージョンみたいなものだ。オオカミなんていないのに、『オオカミだ!』と言いつづけてて、彼は本当にオオカミが来たときに誰にも信じてもらえなかった。差別があるのに、『差別などない、ない!』と言いつづけたら、現実の差別には対応できなくなるんじゃないのか。」  うーん、辛辣だ。

 でも確かにこれは真面目に考えるに値する問題だと思います。平等だ平和だと訴える団体、運動は少なくありません。日本でもメディアで好意的に紹介されたり、日本に招かれたりしたものも、いくつかあります。「遺族の会」は、パレスチナの「自爆テロ」で殺されたイスラエル人の遺族と、イスラエル軍に殺されたパレスチナ人の遺族とで構成され、悲しみを共有し、暴力では問題は解決しないと訴えています。日本でも数年前にNHKで番組がつくられ、また代表を招いてのシンポジウムも開かれました。あるいは、毎年のように開催される「ピース・キッズ・サッカー」は、イスラエル人とパレスチナ人の子どもたちを招いて、グラウンドで平和的にサッカーの試合によって交流をはかり、相互理解を促すプロジェクトです。
 こうした取り組みは、どう見ても平和的で友好的なものであり、それを否定することは難しく、安易に批判すれば、「和平を阻害する者」というレッテルでも貼られかねません。
 とはいえ、直感的に、「何かおかしい、欺瞞的だ」と感じる人も少なくないと思います。占領の問題に触れずに、「暴力の連鎖」とか「紛争激化」とばかり報じる大手メディアが、あたかも「双方が同じ立場・力で土地の奪い合いをしている」という捉え方をしているのと同じように、その和解を訴える側もそうした前提に立って、「お互いに暴力はよくない。相互理解を深めましょう」と言ってしまう。
 僕が訪れた学校の取り組みについても、やはり同様の問題がどうしても感じられてしまいます。上の友人は、その問題の核心をズバリと指摘したと言えるでしょう。

 ある種の二言語主義は、今回のパレスチナ/イスラエル滞在で訪問した反シオニスト・グループ「民主的行動機構」(提携団体のシンディアナやWACも)にも見られます。このグループの構成メンバーは、イスラエル国籍のアラブ人とユダヤ人の双方からなっており、活動のうえではアラビア語とヘブライ語の両方が使われています(機関誌は、 アラビア語誌 =月刊、 英語誌 =隔月刊、 ヘブライ語誌 =季刊)。
 しかし、上記の学校のような二言語主義とは根本的な違いがあります。彼らがユダヤ人メンバーもアラビア語を使うべきだと考えるのは、シオニズムが植民地主義であり、ヘブライ語を先住民のアラブ人に押し付けるのは植民地主義の典型であると考えているからです。そうではなく、もし共生を望むのであれば、侵略する側である自分たちが「支配者」であることをやめ、つまりヘブライ語を「支配的言語」にすることをやめ、自分たちがアラビア語を(も)使えるようにならなくてはならない、という信念があります。
 もちろんユダヤ人メンバーの各人においては、現実的には得手不得手の差はあります。なので、実際の使用場面では、話し合いの相手や参加者構成次第では、二言語の併用、言わば「チャンポン」になるのが普通です。文構造と単語が似ていることもあり、一文のなかでの混合も見られますし、一文ごとにアラビア語とヘブライ語が入れ替わることもあります。

 ともあれ、大切なこと、そしていわゆる穏健平和主義の共生論と決定的に異なる点は、差別的な政治・政策への批判の有無と、そうした差別的な社会構造の変革を訴えるかどうかにあると思います。現状変革抜きに、「平和がいいですね、平等にしましょう」という掛け声だけでは、何も変わらないし、また変えなければという意志さえも、いや友人の一人が言ったように、社会が歪んでいるんだという認識そのものが育つことがないだろうという気がします。