パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2008.05.12

回廊構想の「植民地主義」的性格――問題の所在の再確認のために

Posted by :早尾貴紀

 当情報センターの「平和と繁栄の回廊」構想問題の関連資料として、成瀬謙介氏の 「「過去の克服」としての開発批判―開発コンサルタント企業を軸としてー」 が公開され、JICAから業務を受注した日本工営について論じられている。また、私自身も、『週刊金曜日』でジャーナリストの小田切拓氏との対談 「パレスチナODA「回廊構想」で一線を越えた日本」 において、やはり日本工営の来歴に触れ、JICA・日本工営が関わってきた開発を「新植民地主義」として批判した。
 だがその対談では、紙幅の制約と、対談という形式の制約もあり、じゅうぶんに問題点を整理して提示できてはいなかった。「趣旨は理解できるが分かりにくい」などといった感想もいただいている。この機会に補足として、回廊構想における「植民地主義」的性格についてあらためて論じたい。

 まず、よく聞かれる回廊構想に対する評価として、こういったものがある。

・「たとえイスラエルに迎合する部分があろうと、パレスチナ占領地の地元住民の雇用を生み出し、カネを落とすのであれば、それでいい(批判すべきではない)。」
・「地元のパレスチナ人たちも、仕事のチャンスが生み出されるということで、歓迎している。」
・「事業が実際に開始されてからでなければ、回廊構想が地元パレスチナ人にとってプラスなのかマイナスなのかは分からない。現時点では判断できない。」
・「利害関係のない第三者として、経済をテコにした和平への非政治的な介入は、戦略的ODAとして評価すべき。」

 こういった語りは、回廊構想に関する発言として、よくある型、パターンになっている。加えてこれらは、回廊構想にだけ通じるものではない。アジア、アフリカ、中南米などの「第三世界」に、いわゆる先進国や大国が介入して、「経済支援」や「関係強化」の名のもとにおこなう開発事業についても言われがちな議論だ。
 そして、こうした語りは、一見したところ、中立的なようでありながら、そうした開発に対して差し向けられる疑問や批判を制して、逆に擁護的に作用する。

 たしかに、失業にあえぎ困窮した現地にとっては、生きていくためにはどんな機会をとらえてでも、仕事と給与を欲するだろう。そのこと自体は至極もっともなことであるし、誰にもそれを責めることはできない。
 しかし、だからといって、開発事業それ自体に対する批判が抑制されるべきということにはならない。ましてや、日本政府が税金を投じておこなうプロジェクトに対して、納税者である日本の市民は黙っていてはならないだろう。
 そのとき、この開発事業について判断をする基準は、「地元が潤うか否か」とか「地元住民が賛成しているか否か」、ではない。もちろんそういった観点も無視はしえない。地元利益というのは当然のことだ。だが、それが「基準」となってしまったら、極端な話、被占領下のパレスチナ人に雇用を生み出すかぎりにおいて、イスラエルの占領も容認されてしまうことになる。

 こうした問題について類比的に想起されるべきは、植民地支配だ。日本による台湾や朝鮮半島の植民地統治を思い起こしてみるのは示唆的である。
 周知のように、台湾や朝鮮半島の植民地支配については、戦争責任を否定する右派から、その歴史的役割を肯定する議論が繰り返し主張されている。いわく、「台湾や朝鮮の近代化は日本によってもたらされたのだ。現在の経済発展の基礎は日本が築いたものだ」。さらには、とくに台湾についてより言われがちなこととして、「台湾の人びとは日本の統治時代を懐かしみ、感謝さえしている」。
 こうして日本の植民地支配は正当化されてしまう。そこでは、現地における自生的な発展の契機や可能性、あるいは自決権や主体性といったものが、あまりに安易に無視されている。

 いま、回廊構想の評価について、先述のように、「地元に雇用を生み出す」とか、「現地は反対はしていない」とか言う人は、日本の植民地支配も同じ論理で正当化するのだろうか。
 加えて、こうした正当化の論理は、戦時期の過去にかぎったことではない。戦後に東南アジア地域をはじめとして、JICA・日本工営が「開発援助」の名のもとに押し進めた支援事業は、「新植民地主義」あるいは「再植民地主義」とでも言うべきものであった。公的には「支配」ではないものの、パターナリスティックな形で、つまり父親(日本)が子ども(東南アジア)を上から教え導くような姿勢で、こうしてやるのがいいのだといわんばかりに、プロジェクトを(建前としては援助であり相互協力だとしても)事実上は押し付けてくる。そしてそのことによって、日本の開発企業が利益を吸い上げ、日本政府も現地でのプレゼンスを強化する。植民地主義の継続/再来と言われる所以だ。
 ここで、「地元にプラスかどうか」ということで評価をしてしまえば、新旧の植民地主義は批判できなくなってしまう。

 したがって、現時点で回廊構想を肯定まではしていないという立場であったとしても、「実際に事業が開始されてからでなければ批判ができない」というのであれば、それは擁護論と変わるところがない。事業の全貌が明確になるまで、あるいは開始されるまでは、ただ注視するということが大事なのではない。繰り返すが、回廊構想はそもそもが、占領者イスラエルによるパレスチナ支配を前提とし、占領者の教示と協力によって進められており、日本がそれに荷担してしまっている、ということが問題なのであり、利益をもたらすか否かという結果が問われているのではない。
 関連して、回廊構想が、「利害関係のない第三者としての非政治的な介入」である、というよくある見方もまた間違っている。日本は「利害関係のない第三者」ではないし、この構想は「非政治的」ではない。紛争当事者ではないから「第三者」と言いたいのかもしれないが、回廊構想は、これまでの記事でも触れたように、イスラエル政府の提案を受け、また実際にイスラエル政府によるヨルダン渓谷地帯開発の国家プロジェクトの一環に据えられている。
 この回廊構想によって、日本はかつてないほどにイスラエルに肩入れをし、占領者のポジションに近づいていると言わざるをえない。「平和の使者」・「スポンサー」は、その仮面の下に、無自覚のうちに占領を容認する植民地主義者の顔をもっているのだ。