パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2008.09.11

パレスチナを舞台にした楽観的な小説と悲観的な小説

Posted by :早尾貴紀

◆ヤスミナ・カドラ『テロル』(藤本優子訳、早川書房、2007年)
◆ネオミ・シーハブ・ナイ『ハビービー 私のパレスチナ』(小泉純一訳、北星社、2008年)

 パレスチナを舞台にした二冊の小説を読んだ。共通しているのは、どちらも男女のカップル(夫婦/恋人)を描いているところだ。
 しかし、一方はあまりに楽観的であり、他方はあまりに悲観的。ひじょうに対照的な二冊であった。

   *   *   *

 ヤスミナ・カドラの『テロル』は、ヨルダン川西岸地区出身でテルアヴィヴに住むパレスチナ人男性医師が主人公。その妻は、イスラエル北部ガリラヤ地方の村、コフル・カンナ出身のパレスチナ人女性。妻の方はもともとイスラエル国籍者であり、夫は西岸地区からイスラエル側に移住し、国籍を取得した「帰化者」という設定だ。
 夫は西岸地区出身でありながら、優秀な医師としての名声を高め、イスラエル国籍を取得し、そしてテルアヴィヴの高級住宅街での生活を享受することを誇りに思っていた。政治的なことを避け、普遍的に人命救助のみを信条としていた。
 その妻は、保守的でも宗教的でも政治的でもなく、ただおとなしく夫に付き従うような女性であった。そのはずだった。その妻が、突然にテルアヴィヴの繁華街で自爆して、数十人のイスラエル人の死傷者を出した。夫にはまったく理解できない。裕福な生活で何一つ不自由させなかったはずだし、妻はイスラーム過激派と接点があるどころか、日頃の礼拝さえしていなかった、と。
 時代背景は、年号の明記はないが、ジェニン難民キャンプへの大規模侵攻のことなどが書かれてあるので、2002年頃。パレスチナ人による自爆もかなりの頻度でおこなわれていた時期だ。
 夫は、ただただ理由を知りたくて、わずかな手掛かりを頼りに、やみくもに西岸地区の自分の親族やガリラヤの妻の親族や知人のところに押し掛ける。妻の自爆攻撃を支えたイスラーム組織と接触することはできるが、まったく相互理解の不可能なほどの価値観の断絶に行き詰まる。しかし、やがて、、、(ネタバレになるので、このあたりで失礼。)

 さて、この小説で印象深かったのは、イスラエル国籍で、生活に不自由もしてなくて、根っからの宗教の徒でもない女性が、しかし何らかのきっかけや背景によって、自爆に走りうるということ。そして、西岸の故郷を捨ててきた男性が、自爆した妻の行動や思考を知ろうとする過程で、普遍的人命尊重のみ信条とし「アラブもユダヤもない」という達観が、やはり自分の出自の否定や故郷の現実の否認でしかなかったのではないかと自覚するところ。
 もちろん、この対照的な男女の交錯は、いかにも小説ならではの巧妙すぎる設定であり、現実の複雑さを表現しようという意図からかもしれないが、かえって鮮明すぎる対照的関係は、単純にすぎるようにも映った。(わざわざこういう構図に頼らなくとも、複雑な現実はいくらでもあるのではないか?)
 また、小説内で気になったのだが、2002年を背景にしているにしては、登場人物らがあまりに自在にイスラエルとパレスチナの西岸地区のあいだを、そして西岸地区内部の各都市のあいだを移動している。これは現実にはありえない。第二次インティファーダが勃発したのが2000年であり、西岸地区はすでにイスラエル軍の検問所で寸断されていた(私自身、02年から2年間パレスチナ/イスラエルにいたからそれは断言できる)。にもかかわらず、検問所は一つも登場することなく、主人公の夫も、妻も、組織の人間も、自由に移動しているのだ(西岸地区の自動車がテルアヴィヴを走るということもありえない!)。
 著者はアルジェリア出身のフランス国籍者であり、他にイラクやアフガニスタンを舞台とした小説を書いている。つまりパレスチナ人ではない。もしかするとこの小説は、イスラエル/パレスチナについてメディアや書籍から得られた情報に基づいて書かれたのではないかと想像される。実際に02年頃に西岸地区を歩いていたら、こんな設定や描写は不可能だということに簡単に気がついたはずだ。その点で、リアリティが欠けているように感じた。自爆をめぐる価値観の衝突というところでは迫真的であったために、やや残念だ。

   *   *   *

 ネオミ・シーハブ・ナイの『ハビービー 私のパレスチナ』は、アメリカ系パレスチナ人女性の著者の体験をもとにした小説だ。著者は実際に、アメリカに移住したパレスチナ人の父親とアメリカ人の母親を両親にもち、14歳頃だった1966〜67年にかけて一家でパレスチナ・エルサレム郊外に移住した経験がある。
 この小説の主人公も、舞台背景となる年代は別として、同じ家族構成と年齢の少女だ。
 アメリカ合衆国とアラブ・パレスチナとのあいだの文化ギャップで戸惑う少女の視点と、素朴だったりいたずらっぽかったりする語り口は、ひじょうに面白く読める。また、具体的で詳細なパレスチナの食べ物についての描写や、日常的なアラビア語表現や、あるいはエルサレム旧市街あたりの実在する地名・固有名などは、現地を知る人間にとっては、情景をありありと思い浮かべることができるし、現地を知らない人にとっても、五感に訴える具体的記述は十分に楽しめるものと思う。
 物語の核心部分は、少女がユダヤ人の少年と恋に落ちるところだ。双方の家族が、二人のことを心配し、もっと慎重になるように、思いとどまるようにと警告する。しかし二人は、お互いが心を開き合って信頼できれば、アラブ人もユダヤ人も分け隔てなくつき合えるはずだと、曇りのない純粋さでもって、周囲の不安を払拭する。
 イスラエル兵が少女の友人や親族を暴行したり逮捕するなどの悲劇もあるが、それを背景に、主人公の少女とユダヤ人の恋人のあいだの信頼関係はいっそう際立たせられている。そしてユダヤ人の少年は、西岸地区内にいる父方の一族のいる村を少女一家といっしょに訪問し、受け入れられる。

 著者の体験は第三次中東戦争直前の時期であったが、小説では、年号の明記はないものの、1993年のオスロ合意やその直後の和平機運をうかがわせる背景描写がある。
 アラブ人の少女とユダヤ人の少年のカップルというのも、いかにもオスロ合意直後の雰囲気を反映している。原書刊行は1997年。
 細かな描写は楽しめる良い小説であるとは思うが、しかし、その政治的センスには、あまりのナイーブさを感じてしまう。オスロ合意の問題点については、ここでは繰り返すまでもないだろう。占領の問題など何一つ解決できないどころか、入植政策はいっそう強化され、パレスチナは2000年までのあいだにズタボロにされていったのが、「和平プロセス」であった。その結果が、第二次インティファーダの勃発であったはずだ。
 そう考えると、アラブ人とユダヤ人が信頼しあって愛し合いました、ここに和平のカギがあります、と言わんばかりの設定と結末というのは、正直なところいただけない。

   *    *    *

 悲観的な『テロル』と楽観的な『ハビービー』。対極にあるような二つの小説ではあり、それぞれに読ませる作品だったと思う。二つ並べて読むとなおさら興味深い。が、どちらも、それぞれにリアリティや政治センスを欠くところが感じられ、不満も残った。

---------
【註】
 この文章は、以下の二つの記事を合わせたもので、パレスチナ情報センターと同時に掲載した。
「民族を超えた愛は和平を築けるのか?ーー『ハビービー 私のパレスチナ』」
「パレスチナの「自爆テロ」を題材にした小説ーーヤスミナ・カドラ『テロル』」