パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2008.09.22

イスラエルの芸術家ダニ・カラヴァン展を批判する

Posted by :早尾貴紀

 現在、東京の世田谷美術館で、イスラエルの著名なモニュメント作家 ダニ・カラヴァンの作品展 が開催されている(2008年10月21日まで/12月には長崎県立美術館に巡回)。
 日本では人気のアーティストで、1994年に全国巡回展をおこない、各地にモニュメントを残していき、2001年にも神奈川で大きな展示会をおこなった。これで三度目の日本開催となる。

 カラヴァン作品の特徴やメッセージをまとめて言えば、「記憶」と「平和」。
 ちょうど9月21日に日本経済新聞に大きな記事が出ている。「彫刻家ダニ・カラヴァン 土地の記憶を掘り起こす」との大見出し。そこに引かれたカラヴァンの言葉、

私は場所の持つ記憶に興味がある。どんな場所にも必ず記憶はあり、掘れば出てくる。だから、どこで作るかによって作品はすべて異なる。

 取材をおこなった日経新聞の文化部記者は、この発言に続けて、カラヴァンが、第一次中東戦争の「祖国の英雄」に捧げた記念碑など、壮大な作品をイスラエル内外で制作してきたこと、また、イスラエルという「砂と岩の国」にあって貴重な水をイメージした作品が、「建国前のイスラエルで生まれた」カラヴァンの私的記憶にとって重要であることを解説している。

 さらに記者はこう続ける。

 カラヴァンを語る上で欠かせないもう一つの思想が「平和への願い」だ。・・祖国の周辺には常に紛争があった。・・芸術を通じて、いかに「平和」に近づくか。カラヴァンは模索する。他者の記憶と自分の記憶を重ねる作品は、異なる文化や歴史が争わず、結びつく希望を示すようにも見える。

 そして記事は次のカラヴァンの言葉で結ばれている。

私は異なる場所と場所をつなぎ、関係づけることを目指してきた。人々を結ぶ文化の力は、人類が長く平和に暮らすために、大きな役割を果たすと信じている。

 ご立派なことだ。
 だが、この大きな新聞記事には、たったの一言も「パレスチナ」という言葉が登場しない。なんともおかしな話だ。
 もちろん、イスラエルの芸術家や作品について語るのに、つねにパレスチナ問題に言及せよと言っているわけではない。そうではなく、作者本人や紹介記者が、「土地の記憶」と「平和の希求」について謳っていながら、たったの一言もパレスチナについて触れないというのは、ものすごく政治的に狡猾であるか、あるいはあまりに知識とセンスが欠如しているか、そのどちらかだということだ。

 そもそも、「建国前のイスラエル」に生まれるというのは、いったいどういうことか? 「イスラエル建国前のパレスチナ」の間違いではないのか!?
 展示会を主催をしている世田谷区の紹介ページにある カラヴァン略歴 を見ると、もっとひどいことに、「ダニ・カラヴァン(Dani KARAVAN、1930年イスラエル生まれ)」となっている(配布されている印刷物のチラシでもそうなっている)。1948年に建国されたイスラエルは1930年のときには存在しなかったというのに。
 カラヴァン本人がこういった問題について繊細さを持ち合わせていないことに加えて、世田谷美術館長や日経新聞記者なども、知識と倫理を欠如させているとしか言いようがない。
 日本語やその他のカラヴァンの美術カタログをいろいろ見ても、カラヴァンがパレスチナに対するイスラエルの占領や暴力について発言しているのを見たことがないのはもちろん、抽象的な「平和」への希望から一歩でも踏み込んでいるのを見たことがない。

 逆に、カラヴァンは、ナザレやベエル・シェバやテル・ハイなど、イスラエルの「建国神話」にとって重要な場所で、戦死した英雄を祀る「国家の政治的記憶」のためのモニュメントを制作している。これがカラヴァンの言うところの「土地の記憶」なのか? イスラエル建国によって破壊されたパレスチナ人の村、難民となり追放された人びとの「土地の記憶」はどこに?
 さらにカラヴァンは、オリーブやサボテンといった、パレスチナ人の「土地の記憶」にとって重要な植物を、イスラエル的に転用したモニュメントも数多くつくっている。オリーブもサボテンも、パレスチナ人たちが代々その土地に根ざしてきたネイティヴ性を象徴するものとして知られている。その土地の記憶を象徴するオリーブやサボテンを、カラヴァンは巧妙にも、その象徴性から根こそぎに収奪しているのだ。究極的な暴力(しかし芸術の皮を被って隠蔽された暴力)と言うべきだろう。

 繰り返すが、イスラエルの芸術について語るときに必ず政治を問題にせよとかパレスチナについても語れと言っているのではない。ものすごくイデオロギー的でありながら、そのことを隠すということは、極めて政治的な行為であるということ、そして新聞記者がそのことに触れないというのは、一方的な政治に荷担しているということになる。それを指摘したいのだ。

 カラヴァンは、芸術の名目を隠れ蓑にして、あからさまなシオニスト的政治性を見事に隠蔽したとも言えるだろう。しかし、それにまして問題なのは、まったく批判力を欠如させて、何度も繰り返しカラヴァン展を招いてはありがたがっている日本の美術関係者や批評家たちの姿勢だろう。本当に恥ずかしい。

【追記:9月25日】
 朝日新聞(9月24日)にも ダニ・カラヴァン展 大地に刻まれた亀裂への思い という大きな紹介記事が掲載されたが、やはり「パレスチナ」は一言も触れない。イスラエル建国前から現在に至るパレスチナの土地の「記憶・風景・和平」についてテーマとしながら「パレスチナ」について言及しないというのは、無知で鈍感ゆえだとしても、かなり悪質だ。
 「亀裂」を主題として記事をまとめながらも、そして作品に繊細に分け入りながら丁寧な解釈をしながらも、かえって、「パレスチナ」の空白ゆえに、芸術を説明する抽象的な言葉だけが空疎に響く。

【附記】
 このダニ・カラヴァンの作品のほか、いくつかのイスラエル映画の記憶表象を分析・批判した長文論考(早尾貴紀「パレスチナ/イスラエルにおける記憶の抗争」)を、近く活字媒体に発表する予定である。