パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2008.10.02

パレスチナ/イスラエルにおける二民族共存の挫折の歴史

Posted by :早尾貴紀

(注記:本稿は、 『インパクション』165号特集「21世紀のアパルトヘイト国家イスラエル」 に書いた拙稿「パレスチナ/イスラエルにおける民族共存の(不)可能性――ムハマンド・バクリ監督『あなたが去ってから』をとおして考える」を補足するものである。)


 イスラエルは一九四八年の建国以来、「ユダヤ人国家」という自己規定をしているが、その総人口七〇〇万人の約二割がパレスチナ人である。国家の構成員たる「国民」の二割が非ユダヤ人であるということになるが、国家の規定がユダヤ人国家となっている以上は、このパレスチナ人たちは、国家にとってあるいはマジョリティのユダヤ人にとっては、好ましくない存在とみなされることになる。実際、多くの法律や政策がユダヤ人のみを優遇するものとなっており、法権利的に制限されているパレスチナ人たちは事実上「二級市民」とみなされている。
 以下では、その歴史と現在について概観する。


 ヨーロッパのナショナリズムのもとで同化と非国民化の二重の圧力に晒されたユダヤ人たちが、自分たち自身のユダヤ・ナショナリズムをつくりだしていった。このユダヤ・ナショナリズムを「シオニズム運動」と呼ぶが、それはユダヤ人が独自の民族意識と故郷をもつべきだとするものであり、かならずしも「純粋なユダヤ人だけの国家」を目指す運動ではなかった。
 事実、マルチン・ブーバーやハンナ・アーレントといった思想家らは、ユダヤ人がパレスチナに故郷をもつ権利を主張しつつも(その意味ではシオニストだ)、「ユダヤ人国家」案には強固に反対した。ヨーロッパの国民国家で排除された自分たちユダヤ人が、強引に移民・入植活動をおこない、ユダヤ人の新しい国民国家をつくってしまえば、先住パレスチナ人とのあいだに摩擦を生み出し、ついには排除と追放をする側に回ってしまうだろうと懸念したのだ。
 そこでブーバーやアーレントは、パレスチナをユダヤ人にとっての精神的な拠り所とはするが、排他的な政治覇権を否定する文化シオニズムという立場をとり、具体的な政体としては、一つの土地を分割せずに共有する二民族共存の一国家を提案した。いわゆるバイナショナリズム運動である。マジョリティ/マイノリティ概念をつくらない、ユダヤ人とアラブ人の対等な共存を理念としていた。
 しかし、ダヴィッド・ベングリオンら主流の政治シオニストらは、軍事力に頼って純粋なユダヤ人国家の実現を目指していった。文化シオニストらの理念は広い支持を得られることなく敗北し、四八年のイスラエル建国をもってバイナショナリズム運動は終焉を迎える。膨大な数のパレスチナ人が殺害されるか追放されることによって、新生イスラエル国家におけるユダヤ人のマジョリティの地位が獲得され、残留したパレスチナ人たちは先住民であるにもかかわらずマイノリティの地位にあまんじ、冒頭で述べたような「二級市民」扱いを受け続けることとなった。
 他方で、パレスチナの地にアラブ人国家は建国されることはなかった。


 時代を一気にオスロ合意(一九九三年)以降の現在にくだる。歴史的な和平合意とされたオスロは、二国家解決を謳ったものであった。イスラエル国家とパレスチナ解放機構の「相互承認」、そしてパレスチナ暫定自治政府の発足。将来的にはヨルダン川西岸地区とガザ地区におけるパレスチナ国家独立というプランが描かれた。ユダヤ人国家とアラブ人国家の並立による和平を目指すというわけだ。
 だが、その建前とは裏腹に、世界が歓迎したオスロ合意以降の和平プロセスのもとで、パレスチナ独立つまり二国家解決は一気に崩壊させられていき、もはや後戻り不可能なまでにパレスチナは無化させられていった。最大の原因は、東エルサレムも含むヨルダン川西岸地区へのユダヤ人入植地建設が加速したことであった。入植地の住宅数と人口が増えただけではない。東エルサレムの近郊、イスラエルに接するグリーンライン沿い、そして主要都市間の要衝に集中的に大規模な入植地が建設され、西岸地区は周到に領土的な一体性を損なわれていった。分離壁建設前の段階ですでにそれは決定的であった。
 二〇〇〇年にその不満が、アリエル・シャロン(当時リクード党首/後に首相)の挑発行動によって、第二次インティファーダとして暴発したが、全面的な軍事介入の口実を与えただけで、西岸地区は恒久的な軍事検問所と分離壁によっていっそうシステマティックに細分化され管理統制されることとなった。パレスチナはその時点で、独立国家はもとより自治の体裁すら失って、現在に至る(その後ハマスとファタハの二重政府状態などの問題も生じているが、それ以前に自治などそもそも存在していない)。
 皮肉にも、ここに至ってバイナショナリズムすなわち一国家解決が、再び公然と語られるような文脈が形成されてしまった。というのも、二国家解決の可能性がほぼ完全に潰えたからである。なし崩しの一国家案にすぎないが。
 もちろんイスラエルのユダヤ人の大半はこの考え方を支持していない。イスラエルは断固としてユダヤ人国家でなければならないと考えている。しかし、パレスチナ側を弱体化させて国家の体裁は与えないようにしたいがために、パレスチナ被占領地をますますイスラエルに依存させてしまうという矛盾を深めているのだ。


 それだけではない。イスラエル国家はその正規の領土内部においても矛盾を顕在化させてきている。
 イスラエル国籍のパレスチナ人で著名な俳優でもあるムハマンド・バクリのドキュメンタリー映画『あなたが去ってから』(〇六年)は、バクリ自身がイスラエル国民のパレスチナ人として生きることの困難を通して、民族共存の(不)可能性を問おうとした作品だ。
 第二次インティファーダへの弾圧として破壊されたジェニン難民キャンプを撮ったバクリの前作『ジェニン・ジェニン』(〇二年)の上映禁止問題と同時に、バクリの甥がイスラエル内での自爆攻撃に関わるという事件が起きてしまったことで、バクリは徹底的に「非国民」扱いを受ける。その状況下でバクリは、生前に親交の厚かったイスラエルのパレスチナ人作家・政治家のエミール・ハビービー(バクリはハビービー原作の小説を長く一人芝居で演じてきた)の墓を訪れ、ジェニンでの出来事やバクリ家に降りかかった出来事を静かに語りかける。
 バクリがそのなかでとくに衝撃を受けたこととして語っているのは、第二次インティファーダ時にイスラエル国内でも広がった抗議行動への弾圧で、イスラエル国籍のパレスチナ人(アラブ系市民とも呼ばれる)が十三人も警察に殺害されたこと、そしてイスラエル国内のパレスチナ人の村でも西岸地区同様に集団懲罰的な家屋破壊がおこなわれていることだ。「あなたが去ってから」(ハビービーは一九九六年死去)、こんなにもひどいことになっている、と。「あなたはこんな光景を見ずに済んで幸運だったかもしれない」、そうバクリは墓前で語る。

おわりに
 かように、イスラエルはパレスチナ全土でひたすらユダヤ人至上主義を掲げつづけ、西岸地区・ガザ地区に対してと自国内のパレスチナ人に対して二重のアパルトヘイト体制を敷いている。すなわち、完全に対等な二国家でもなく、完全に民主主義的に平等な一国家でもなく、極めていびつなアパルトヘイト国家だ。だが、それは永続することはありえず、いつかは自壊する時限爆弾でしかないのだ。

附記:『ジェニン・ジェニン』および『あなたが去ってから』はともに ドキュメンタリー・ドリーム・ショー:山形in東京2008 で上映される。