2008.10.13
「共存の街」アッカでの「暴動/衝突」について――文献の紹介も
Posted by :早尾貴紀
イスラエルの北部の沿岸の街、アラブ人とユダヤ人が「共存」するというアッカで、10月8日の夜から、アラブ人住民とユダヤ人住民とのあいだで大規模な衝突が発生し、数日にわたる暴動の様相を呈した。いまでも緊張が解けていないと言う。
発端は、8日、ユダヤ教のヨム・キップール(贖罪の日=ユダヤ人にとって最も重要な宗教儀式の日)の夜に、アラブ人住人の若者が、厳粛な雰囲気にあるユダヤ人地区を車で疾走したことだとされている。
ユダヤ人の若者がこの車の若者を襲い、双方の若者が集まっての衝突に展開、治安警察隊が投入された。負傷者や逮捕者が相次いだ。
ここでは詳細な事実経過は問わない。おそらく直接的なきっかけも、一年で最も特別なユダヤ人の宗教の日に、「大音量の音楽」を流しながらユダヤ人の街で車を走らせたアラブ人の若者にあるのだろう。
ただ、気になるのは、今回の事件で、しきりに「共存の街に亀裂が走った」と嘆かれていることだ。「せっかくアッカはユダヤ人とアラブ人が共存できる数少ない成功例だったのに」という言い方や、「共存の理念のもとにアラブ人とユダヤ人の双方に対して自制を呼びかける」といったまことしやかな主張が聞かれる。
だが、暴動そのものの展開よりも、そもそもアッカという街にいかなる「共存」があったのかということを、あらためて考え直す必要がある。
アッカは、聖書の時代から名前の出ている有名な歴史のある街だ。そして、いまも城壁に囲まれた旧市街が残っており、そこにアラブ・パレスチナ人たちが生活している。
そして、強調しておきたいことであるが、アッカは、1947年の国連パレスチナ分割決議(国連がユダヤ人国家とアラブ人国家にパレスチナの土地を分割することを定めた決議181)においてさえ、「アラブ側」に区分されていた(アッカも含む肥沃なガリラヤ地方の全体を含めて)。すなわち、国連決議を「受け入れた」ユダヤ人側と「拒否した」アラブ人側という、シオニストがよく使う巧妙なレトリックがあるが(「拒否したアラブ人が戦争を仕掛けて負けたのだから、勝ったユダヤ人が決議のラインを越えて領土を獲得していいのだ」という正当化の論理=もちろん史実と異なる)、その決議においてさえアッカはユダヤ人国家(イスラエル)に入ってはいないのだ。
したがって、アッカに住むユダヤ人たちは、1947-49年の第一次中東戦争のときに、戦争という手段によって、暴力的に先住アラブ・パレスチナ人を大規模に殺害・追放し、そこを占領し、旧市街の周囲に新市街と呼ばれるユダヤ人の街を形成し住み着いたのである。
まず、「共存」の歴史的背景には、こうした侵攻・占領という暴力が存在していることは忘れてはならないし、また「共存」の形にしても、けっして混じり合っているとか、よきお隣さんとして仲良くしているということではない。
イスラエル建国後、「ユダヤ人国家」という規定上、当然イスラエルはあからさまなユダヤ人優遇政策を敷き、「アラブ系二級市民」たちを行政的に差別した。これはイスラエル内のどこでもなされたことだが、アッカのような旧市街があるような大きなアラブ人の街を「ユダヤ化」していく大計画においては、なおさらのことだ。
とくに、人口バランスをユダヤ人優位にするために、すなわち、ユダヤ人を組織的に定住させアラブ人増加を抑制するために、公式/非公式の手段が導入された。インフラ整備格差などは露骨な格差づけだが、見えないところでは、旧市街のアラブ人への麻薬の蔓延は警察当局が意図的に容認したものだというのは、有名な話だ。
こうした「共存の街」アッカの歴史と現実を詳しく描写・考察したもので、日本語で読める文献がある。田浪亜央江さんの 『〈不在者〉たちのイスラエル』(インパクト出版会、2008年) のなかの第10章(pp.226-245)。
ひじょうに生々しい筆致で、実体験も交えながら、アッカに集約されるシオニズムの問題が論述されている。この機会にぜひご一読を。