パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2009.01.05

ハマス政権の評価をめぐって――ヤコブ・ベン・エフラートの論考への訳注として

Posted by :早尾貴紀

 イスラエルの反シオニスト組織「民主的行動機構」のヤコブ・ベン・エフラートの二つの論考を訳出した。

 ◆ヤコブ・ベン・エフラート 「ガザを支配するイスラエル:占領を永続化する軍事作戦」
 ◆ヤコブ・ベン・エフラート 「ガザ戦争に対するイスラエルの責任」

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 私自身も交流のある団体であり、執筆者とも面識がある。イスラエル国内から、アラブ人とユダヤ人がいっしょに活動しシオニズム的差別に抵抗していること、そして具体的な労働や生活の現場で活動をしていること、インターナショナリズムを掲げて問題解決のために世界とのつながりを重視していることなど、共感を覚えるところが多い。しかもユダヤ人とアラブ人との共闘と言っても、形式的な平等や共存を訴えているわけではなく、ユダヤ人至上主義をありとあらゆる政治・経済・社会制度に組み込んだシオニズムのなかで、ユダヤ人の側の差別的特権性や加害性や責任を厳密に考え、ユダヤ人の側からそれを克服しようとしている。
 例えば、主要メンバーはみなアラビア語をマスターし、アラビア語を会議などの共通語としているところなどにそれが表れている(イスラエル国内ではアラブ人のほうがヘブライ語を話さなければ生きていけないという非対称的な構造があるにもかかわらず、そうした言語植民地主義を看過せず抗っているとも言えるし、また若い世代のイスラエル国籍のアラブ人でも必ずしもヘブライ語に通じているわけではなく、彼らに働きかけるという活動上の要請でもある)。

 彼らの活動の一環としてのオリーブ製品のフェアトレードによる輸出、それによるパレスチナ人(ガリラヤ地方と西岸地区の両方)の生産者を支え、同時に海外と具体的・継続的に繋がることに共鳴し、日本では 「パレスチナ・オリーブ」 がパートナーとなっている。彼らの機関誌である『チャレンジ』誌からは、パレスチナ・オリーブのサイトにいくつもの記事や論説を翻訳紹介してきた。

 今回のヤコブ・ベン・エフラートの二本の論考もそうした流れのなかで、イスラエル内部からのイスラエル批判の声として貴重であると考え、訳出を試みた。また、彼の論考にかぎらず、1993年から一貫しているオスロ和平体制への根底的な批判を基底に、『チャレンジ』誌の分析や批判は強く賛同できかつ信頼できるものであり、その点でも紹介の価値があると考えている。

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 とはいえ、訳出の二本の記事に部分的に含まれるハマス(ハマース)政権指導部への批判の厳しさについては、短い文章で説明不足であることもあり、違和感や異論もあろうかと思われる。あくまで私自身は訳者であり、必ずしも細部まで全面的に見解を一致させているわけではないという当然のことを確認しつつ、若干の補足をしておきたい。

 ヤコブ・ベン・エフラートの論考の最大のポイントは、誤読の余地なく明白なことだが、徹頭徹尾イスラエル批判にあり、その責任を明確化させることにある。
 ハマス政権の誕生の背景および指導部の政策判断やその失敗などについての分析はあるが、パレスチナ問題についてある程度知っている人からの異論は、ここに向けられると思う(執筆者本人が反論を加えたシオニスト的異論が、イスラエルの責任論に向けられていたのとは違って)。
 まず確認しておくべきことは、ベン・エフラートはあくまでハマースの「指導部」に対してその「判断の誤り」を言っていることと、それでも「責任」についてはイスラエル側にあることを見逃すべきではないと強調していることだ。オスロ和平体制の欺瞞や崩壊が明確になった以上、パレスチナの人びとがハマスを選択せざるをえなかったことには必然性があるし、それを批判しているわけではない。
 この点で、私自身は、ハマス政権がどれだけ運営能力が欠乏していようと、判断ミスをしようと、また宗教色が強かろうと、ファタハ政権&アッバース大統領にノーを突きつけ、政権交代を望んだパレスチナの民意を尊重すべきであると思うし、その点をもう少し明記してもよかったのではないかと思う。ベン・エフラートは、あくまで民意を尊重しながらも、ハマス指導部に否定的という自身の立場を明確にして、民衆の支持がハマスから離れるべき方向を示唆している。民意の尊重をやや逸脱したパターナリズムを読み取ることもできよう。民意を尊重するならば、まずはハマス政権と対話を開始するのが筋だ。
(西岸地区のパレスチナ人たちまでがハマス政権への交代という選択をしたことに関して、選挙直後のルポである エリック・アザン『占領ノート』 は興味深い。)

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 ハマス指導部の主張がどこまで「ムスリム同胞団」的で、また「イスラエル殲滅」の主張を実質的に保持しているのかについては、正直なところ、私には見極めがつかない。私が読んでいる情報は限られたものでしかなく、また、そういった問題を含む政治主張については、対内的なものと対外的なものがあり(「二枚舌」はどの国の政治家でも使う一般的なことにすぎない)、その見極めも難しい。それによって「ムスリム同胞団」や「イスラエル殲滅」の点に関しては判断がわかれることと思われる。
 そしておそらくは、私よりもはるかに多くの情報に接し深く読んでいるベン・エフラートの分析は重んじられるべきだと思う(逆にハマス政権に近い人あるいは共感を覚える人からは、異なる評価があって当然だろう。ただその場合でも、過度にハマスの潔癖さや優秀さを褒め讃えるのはまたバランスを欠いていると思うが)。

 ただし、そのうえでやはり私見を加えたいが、ハマス指導部の戦略には、1967年占領地(西岸地区とガザ地区)のすべてからイスラエルが完全に撤退すること(ユダヤ人入植地を撤去し、国境管理権・制空権・制海権もパレスチナ側に与えること)を条件にしたイスラエル国家承認が用意としてあった。この「占領終結」という点では、ベン・エフラートのイスラエルへの要求とは大きな隔たりはないのではないかと思われる。
 もちろんその「駆け引き」のなかで、イスラエル殲滅を自ら明確に撤回せずに交渉材料としつづけたところについて、戦略上の成否は問われてもいいが、ハマスが言われるほどに非現実的なイスラエル殲滅を実質的に保持していたとは私には思われない。むしろ、占領地からの全面撤退をしたくないイスラエル側が、「ハマスはわれわれを殲滅させようとしている。だから交渉相手にしない」と誇張していたと考えるのが妥当ではないか。
(この問題については、2006年からこの場で繰り返し書いてきた。以下を参照。)

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 宗教性にもかかわる「ムスリム同胞団」のくだりは正直、手に余る。
 一点だけ簡単にコメントを加えれば、先に述べたように、宗教的要素をもって政権担当の可否に関わるような評価をくだすことには違和感がある。これは「宗教と世俗」というひじょうに難しい問題に関わっている。そもそもイスラームにおける「宗教」と「政治」とは何か。「世俗的」であるということと、「非宗教的」であることと、いわゆる「政教分離」とは、どのように重なりズレているのか。これを論じることなしに、宗教性を一概に政権担当の適性判断にあてはめることはできないのではないか。それでいいと無条件に肯定するつもりもないが、宗教勢力だからダメだと否定することもできないと思う。
 これは、エドワード・サイードなどが価値観としてこだわった「世俗的民主主義」の議論にも通じる問題だ。もし一様にその価値観を共有すべきだと言ったとしたら、そこに西欧中心主義が入り込んではいないだろうか。もちろん、個々の地域の歴史的政治的文脈も考える必要がある。例えば日本の場合、国家神道がファシズムと戦争を推し進めた主要ファクターの一つであったということが、戦後日本の政教分離原則の背景にあることは、近年の日本の右傾化に鑑みても、何度でも確認しておくべきことだ。
 では、パレスチナひいては中東地域の場合はどうだろうか? もちろんサイード本人は、その歴史性と政治性を考えた上での「世俗的民主主義」の主張であったのは確かだ。ベン・エフラートの場合は、インターナショナリストの共産主義者としてという立場を背景としての主張であるという面もあろう。ただ、そのいずれも鵜呑みにすることなく、ハマス「政権」における宗教性の問題(宗教や宗教団体一般ということではなく宗教と国家との関係について)をマクロ・ミクロの両面で(歴史的にかつ地域的に)再考することは必要であると思われる。

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 ともあれ、最後に強調しておきたいことは、今回のガザ戦争は、イスラエルが戦争をしたかったから戦争を仕掛けたということであり、ハマス側の停戦無視への報復やイスラエルの自衛権行使といった議論は完全な虚偽であるという点だ。これだけは、麻生内閣も含めて各国政府が丸呑みしている「イスラエルの自衛権を尊重する」とか、周囲に流通する「ロケットをぶっ放したハマスの側が(も)悪い」とかいった議論への反論として繰り返しておきたい。