パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2010.01.22

ガザ境界エレズ検問所でのデモのショボさ

Posted by :早尾 貴紀

 2009年12月31日。
 ガザ地区のイスラエル側の検問所エレズにて、昨年末からのガザ大侵攻から1年目の機会に、ガザ解放を訴える集会がありました。
 超党派の呼びかけで、主にイスラエル国内と東エルサレムのパレスチナ人(西岸地区の人はイスラエル側に来られない)、それからイスラエルの和平派のユダヤ人と、海外からの参加者が集まりました。

 ガザへの猛攻撃からわずか1年、しかもガザ封鎖は続いているにもかかわらず、その集会は、けっして「大集会」と呼べるようなものではなく、またそのあまりに無内容でバラバラの集まりには、正直なところ、強い落胆を覚えました。
 人数は、500人以上はいたと思いますが、1000人にははるかに届かないでしょう。テルアヴィヴのラビン広場に5万人とか10万人と集まるような集会をやってきたイスラエル社会において、この人数はほとんど「無」です。

 規模だけの問題ではありません。いちばん気になったのは、聞こえてくるまとまったシュプレヒコールはすべてアラビア語だけだったこと(しかもいくつかのグループが三々五々勝手に)。パレスチナ人や周辺アラブ諸国からの参加者らによるイスラエルへの抗議、あるいはガザ市民への連帯のアピールだったわけですが、集会のあいだじゅうヘブライ語がまったく聞こえてこなかったのです。
 「ピース・ナウ」は? 「グッシュ・シャローム」は? 個人的に来ている人はいたと思います。ヘブライ語のプラカードも何枚かは見かけました。でも、まとまった声となっては聞こえてこないのです。
 イスラエル社会が変わるためには、何より、イスラエルのマジョリティであるユダヤ人が動かなければどうにもなりません。しかし、イスラエル人はもう和平について、ガザについて考えるのに、うんざりして疲弊してしまっているように見えます。
 いまイスラエル側の街、西エルサレムやテルアヴィヴやハイファを歩けば、もう緊張感がないような感じですーー02-04年頃と比べればはるかに。店やカフェに入るのにも、手荷物検査などなくなりました。ガザ地区は封鎖し、西岸にも壁をつくって、パレスチナ人は見ないようにすればそれでいい、というような。

 04年、当時のシャロン首相が、ガザ地区からの「一方的撤退プラン」を発表し、世論を二分する大論争になっていたときのことを思い出します。入植地保持を主張する右派がシャロンを攻撃し、なんとピース・ナウなどの左派がシャロン擁護をしたのです。それこそ左派は当時「大集会」をもって、シャロン支持をアピールしました。
「シャローム・レ・アッザ! シャローム・レ・アッザ!」と叫んでいました。これには二重の意味がかけられています。「ガザに平和を!」と、そして「ガザはさようなら」。
 つまり、そのときからイスラエルの市民社会は、ガザに訣別をして、もう関与しない、ということに決めたのでしょう。その04年のときから、今回のような「無関心」はすでに始まっていたというべきなのだと思います。