パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2010.02.08

二度目の「国内難民化」が進むヤーファー

Posted by :早尾貴紀

1月●日

 イスラエルの首都テルアヴィヴの正式な行政区としての名前は、「テルアヴィヴ・ヤッフォ」です。ヤッフォというのは、テルアヴィヴが100年以上前にできるずっと前からある古いアラブの港町で、アラビア語でヤーファーと呼ばれています。
 あるいはもっと歴史的に正確に言えば、テルアヴィヴは、ヤーファーという港町があったからこそ、そこに隣接するようにユダヤ人移民・入植者によって人工的に建設された、というわけです。ですから、テルアヴィヴこそが、ヤーファーのおこぼれに与ろうという、寄生都市だったと言えます。

Google Maps

 それが、膨大なユダヤ人移民によってテルアヴィヴは、イスラエル建国前から肥大化していき、建国後にはヤーファーを呑み込み併合してしまうのです。それだけではなく、ヤーファーの住民の大半は追放され、あるいは避難を強いられ、難民となりました。ガザ地区や西岸地区などに追われました。
 ヤーファーには、さらに複雑な事情があります。ヤーファーを取り囲んだシオニスト政府はそこを「ゲットー」と呼び封鎖し、近郊のその他のパレスチナ人の村から一掃した住民の一部を、そこに居住させました。したがって、「ヤーファーはアラブの伝統的な港町だ」と言っても、実はその住民の少なからずの人たちが、ヤーファーの外から1948年に移住させられた「国内難民」なのです。

 イスラエル建国後、イスラエルはヤーファーを「解放」し、テルアヴィヴと「統一」した、といい募ります。そしてどんどんとヤーファー側にもユダヤ人の移民が入っていきました。皮肉にも、その一部は古い建物を活かして改造され、アトリエやギャラリーとして使われ、ユダヤ人の「芸術家の町」ということになっています。

 とまあ、ここまで書いたのは、よく知られている歴史背景です。

 この10年ほど、さらに新しい動きがあります。
 ヤーファーの「ゲットー」と言われたアジャミー地区。そこはかつては鉄条網に囲まれ、その近隣の海岸には破壊されたパレスチナ人の家屋の大量の瓦礫が投棄され、残された建物には住民が犇めきました。
 その元「ゲットー」やその周囲の地区が、どんどんと「再開発」の対象となり、住宅開発会社がここを「高級住宅街」として売り出し始めているのです。
 おのずと地価が上がり、固定資産税や家賃も急上昇しました。そこに住み続けてきたはずのパレスチナ人たちの多くが、武力によって強制的にではないかたちで、しかし目に見えない強制力によって、どんどんと追い出されています。
 お金さえあれば、税金や家賃を払い住みつづけることも、また新たに造成され販売された宅地を買うことも可能です。しかしそれは、平均的な給与水準では不可能なほどに高く、平均以下の収入しかない多くのパレスチナ人にとっては、もはや出て行くしか選択肢がありません。ごく例外的に成功した医者や弁護士やビジネスマンの家族だけ、パレスチナ人住民のせいぜい1〜2割程度しか残れないのではないか、とさえ言われています。

 その高級住宅地を買っているのは、もちろん中・上流階層のユダヤ人と、海外の投資家など。とくに政治的動機からでもなく、テルアヴィヴを近くに臨むことのできる便利で閑静な海辺の住宅地・リゾート地、ということでカネにものを言わせて買っているにすぎません。
 しかし、その行為がまさにパレスチナ人を、「二度目の追放」へと追い詰めているのです。

 世界的に見れば、大都市近郊の再開発で起きている、低所得者層の排除と同類の出来事ですが、イスラエル/パレスチナにおいては、あきらかに民族浄化として作用しています。