パレスチナ情報センター

スタッフ・ノート

2010.09.01

9月2日、中東和平交渉再開――日本政府の無能さの根源を考える

Posted by :早尾 貴紀

 九月二日にアメリカの仲介とEU・ロシアの支援のもと、パレスチナとイスラエルによる中東和平交渉が再開する。ここに一九九三年のオスロ合意以降、主要な援助金支出国である日本の影はない。二〇〇六年からは「平和と繁栄の回廊」構想と銘打ったパレスチナ支援を謳うODA事業で、双方の経済協力を通した政治和解を演出しようとやっきになっているにもかかわらずだ。
 この問題の根源を、二つの「戦後」のなかに探りたい。一つは、九一年の湾岸戦争「後」(それ自体が冷戦「後」でもある)であり、もう一つは遡って二次大戦「後」だ。
 湾岸戦争は、イラクの問題に限定されない中東和平全体の枠組みを大きく変えるものであり、オスロ合意も、湾岸諸国の後ろ盾を失ったパレスチナ側が不利な合意に追い込まれたという、湾岸戦争後の産物という側面がある。また多国籍軍という名目で日本やヨーロッパ諸国が戦費負担と部分的参戦をし、アメリカ主導の戦争の正統化に荷担するという構図ができあがった。日本の外交の大きな転観点でもある。オスロ合意もその枠組み内にあり、アメリカ追従の日本の中東政策もそれに規定され続けている。
 もう一つの戦後というのは、回廊構想が想起させるものだ。この構想はJICAがODA事業として実施するのだが、その業務を受注しているのが日本工営という会社だ。植民地下朝鮮半島の水源開発事業に起源をもつこの会社は、ベトナムやタイやインドネシアで対アジア諸国の戦後賠償に代わる開発援助としてのODA事業を特権的に受注することで、莫大な利潤をあげ発展してきた。現地ニーズよりも国益と事業利権を優先したODAのあり方に対しては長く批判が加えられてきたが、工営はその最大の事業者であった。その工営が今度はパレスチナにまで手を伸ばしてきたのだ。
 だがこの二つの戦後の枠組みは、有効性にも公正さにも欠けることがすでに明白となっている。
 オスロ合意を基本とする和平交渉は、占領の内実までもが交渉対象であり、入植地問題をはじめとする占領自体を否定するものではないのだが、そのことに対してパレスチナの民意はノーを突きつけている。二〇〇六年のパレスチナ総選挙で、和平交渉を長年担って何も成果を得られなかったファタハ政権が敗北し、占領の全面終結を譲らないハマス政権が誕生。しかしイスラエル、アメリカ、日本など国際社会はそれを拒否。ハマスを狭いガザ地区に追い込むとともに、ガザ地区は封鎖。この構図が変わらないまま、アメリカは今回もハマス政権のハニヤ首相を抜きに、ファタハのアッバス大統領のみを招くのだが、国際社会によって民意を踏みにじられ半分に分断されたパレスチナの代表に「交渉」力などないに等しい。
 日本政府もまた、占領に対して批判的介入をせずに援助支出だけを続けているうえに、回廊構想に着手。同構想でも占領問題には一切触れず、日本が仲介者となりパレスチナとイスラエルを対等なパートナーとして位置づけながら和平交渉に導こうという点で、オスロ合意の構図を踏襲している。さらにハマスを排除しガザ地区を無視し、西岸地区でファタハ政権およびイスラエル政府と協力するというところまで、アメリカの方針に沿っている。
 だが占領批判という根幹を欠いた同構想は、被占領下のパレスチナ人の支持も得られず、その主たる事業計画も農業団地から太陽光発電へ、中小企業支援へと場当たり的に二転三点し迷走を続けている。このかん膨大な調査費・人件費がパレスチナを知らないコンサル会社(とそれに群がる組織・個人)によって浪費されている。
 すでに破綻が明白になった古い二つの戦後の構図の上で何をしようと、成果は生まれないだろう。