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イスラエルによる軍事占領

1967年、第3次中東戦争(6日間戦争)の結果、勝利したイスラエルはエルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区すべてを占領下に置いた。(他にシリアのゴラン高原、エジプトのシナイ半島──1982年に返還──も占領)。

同年の国連決議242号では「最近の紛争において占領された領土からのイスラエル軍隊の撤退」要求が盛り込まれたが、シナイ半島を除いて現在も占領は続いている。

旧市街を含む東エルサレムは西エルサレムに強制的に併合され、占領地とは切り離されて、イスラエルの行政下に置かれた。1980年になると、イスラエルは統一エルサレム(西エルサレムと東エルサレム)を恒久的首都とする法案(エルサレム法)を成立させて、この併合を再確認した。しかし、国際的にはこの併合は認められず、ほとんどの国が大使館をテルアビブに置いている。同年の国連安保理決議478号は、この法案が無効だとし、破棄すべきものだとしたが、イスラエルはこれを無視し続けて今日に至っている(オスロ合意では最終段階で解決されるべき問題だとされていた)。

リンク:東エルサレムと入植地マップ

占領下に置かれていたヨルダン川西岸地区とガザ地区では、87年に第1次インティファーダ(「民衆蜂起」と訳される抵抗運動)が起こり、イスラエルによる軍事弾圧を受けて多くの犠牲者を出した。その後、PLO(パレスチナ解放機構)は、イスラエルを承認し、パレスチナ国家を48年の停戦ラインで分けられた占領地(もともとの全土の約4分の1)に樹立する方向で、国際舞台に登場する。この後、93年、イスラエルとパレスチナの間でオスロ合意(「パレスチナ暫定自治協定」)が結ばれ、パレスチナ暫定自治政府が誕生した。しかし、エルサレムの帰属、入植地問題、水問題、パレスチナ難民の帰還権、国境管理などの重要な問題は最終段階で解決をはかるものとして棚上げされた。

コラム
「A地区・B地区・C地区」

暫定自治協定では占領地をA、B、Cの3つのカテゴリーに分けた。

A地区:パレスチナ自治政府が行政・治安を担当(都市を中心に、パレスチナ人居住区が集まる場所)。西岸の17%のみがA地区(2000年)

B地区:パレスチナ自治政府が行政を担当、イスラエル政府が治安を担当(主に点在するパレスチナの村)。西岸の24%(2000年)。

C地区:イスラエル政府が行政・治安を担当(幹線道路・入植地周辺、砂漠、ヨルダン川渓谷沿い)。西岸の59%(2000年)。

しかし、実態としては行政区分は以上の通りだとしても、封鎖・軍事侵攻・検問などはどの地区でも関係なく行われ、「自治」の意味は形骸化している。

オスロ合意によって、PLOがチュニスから占領地に帰還し、まがりなりにも占領地での「自治」は始まったが、イスラエル政府は占領地での入植地建設を加速していく。イスラエルのラビン首相の暗殺(95年)、パレスチナ指導者の暗殺、イスラエルの政権交代という流れの中で、占領地のパレスチナ人は状況がよくなるどころか悪化しているのを感じるようになる。封鎖、家屋破壊、農地破壊はますます激しくなっていった。

資料
「イスラエル左派が見たオスロ合意」

「この協定でペレスとラビンは、バンツースタンをつくろうとしている」 (シュロモー・ザンド、テルアビブ大教授)

*バンツースタン…南アフリカで人種隔離政策(アパルトヘイト)のもと、作られた黒人の指定居住地。国際的には認められなかったが、南アはこのバンツースタンを独立させて、黒人を南アの市民から除こうとした。

「インティファーダに手を焼いたから、自分たちは占領地の外に出て、彼らに独自の警察をもたせよう、というものです。イスラエルはインティファーダのせいで占領地を手放そうと考えたのです。パレスチナ人は独自の政府をもつことができるが、実際は軍もないし、政策もたてられないし、イスラエルに完全に頼ることになる。これがペレスとラビンの目的なのです」 (エウド・エンギル、『ハアレツ』紙編集者)

(以上、『パレスチナ』広河隆一 岩波新書より)

リンク:「アパルトヘイト体制とパレスチナ情勢の比較」(ル・モンドディプロマティーク日本語版)

2000年7月、クリントン米国大統領を仲介にバラク首相(労働党)とアラファト議長の間で行われたキャンプデービッド会談は決裂に終わる。バラクは西岸の90%の土地をパレスチナに与えるという「最大の譲歩」をしたことになっているが、イスラエルになる10%の部分は入植地群や水源地帯を含み、これが西岸を孤立した3つの地域に分けるものだった。また、エルサレムの帰属や難民の帰還権についても、合意は成立しなかった。こうして、オスロ合意による暫定の5年間の期限が終わった時点での「パレスチナ独立国家」宣言は消えた。

2000年9月28日、右派リクード党の党首であったアリエル・シャロンは、エルサレムのハラム・アッシャリーフ(アルアクサーモスクと岩のドームがある)を警官1000人を引き連れて、強引に「訪問」。怒って投石を行ったパレスチナ人が次々に撃ち殺されると、怒りはパレスチナ占領地に拡がっていった。第2次インティファーダ(アルアクサー・インティファーダ)がこうして始まった。

イスラエル領内のパレスチナ人(イスラエル・アラブ)にも拡がったインティファーダはイスラエル軍の徹底的な軍事弾圧に遭い、瞬く間に犠牲者が出ていった。9月29日〜10月4日までの死者は65人、負傷者は1300人以上にのぼったとされている。11月上旬までには170人のパレスチナ人が殺され、負傷者は6000人以上となった(パレスチナ医療救援委員会による)。その後、2001年1月のイスラエル総選挙で右派リクード党が勝利し、シャロン首相が誕生。強硬路線が支持され、軍事侵攻はより激化した。

2001年9月11日を境に米国が「対テロ戦争」を開始すると、イスラエルがパレスチナを攻撃する名目が正当化されるようになる。10月、イスラエル軍はガザに侵攻。暗殺や報復の自爆攻撃、空爆、ベツレヘム、ベイト・ジャラ、トゥルカレム、カルキリヤなどへの侵攻が続き、軍事作戦はますます激しくなった。その頂点が2002年4月に始まったイスラエル軍の言う「防衛の盾」作戦で、ベツレヘム、ラマッラー、ジェニン、ナブルスなどへの大規模軍事行動は多くのパレスチナ人の命を奪い、街を破壊した。ジェニンでは難民キャンプの中心部が完全に瓦礫の山とされ、最低60人以上の人が殺されるという虐殺が行われた。パレスチナ自治政府の行政機関もことごとく破壊され、議長府は1棟を残して、廃墟となった。

第2次インティファーダが始まって以来、殺されたパレスチナ人は4166人、負傷者は45538人となっている。(2005年10月までの数値、The Palestinian National Information Center調べ

参考になる図書:

『パレスチナの声、イスラエルの声』土井敏邦 岩波書店

『パレスチナ』エリアス・サンバー 創元社

『パレスチナから報告します 占領地の住民となって』アミラ・ハス 筑摩書房

『パレスチナ ジェニンの人々は語る』土井敏邦 岩波ブックレット

「ルート181」コラム
「2002年夏」

「向こう(占領地)では殺りくの嵐さ。こちらでお祝いしてもな」 (北部・オリーブ摘みをするパレスチナ人(イスラエル・アラブ)の老人)

「ルート181」は「防衛の盾」作戦がまださめやらぬ2002年夏に撮影された。映画の中ではヘリコプターや戦闘機の姿が何度も現れ、飛行音をとどろかせている。

「防衛の盾」作戦の前哨となった2001年秋の侵攻のことを、ベイト・サフール(ベツレヘムの隣町)に住む16歳の少年はこのように英語で書き、世界に届けようとした。

「僕の家の隣にはアブ・グネーム入植地とチェックポイントがあります。この地域の被害のほとんどはこのチェックポイントから起こったものでした。彼らは戦車やマシンガンをもっています。彼らが射撃を始めると僕たちはまるで自分の家の中から彼らが撃っているように感じます。それは恐ろしい。ただもう恐ろしいものです。僕は孤独をそして疲労を感じています。僕は毎日何もしていません。大好きなスポーツをすることもできません。教会に行くことも繁華街に行くこともできません。電気がきたときにだけただ座ってテレビを見るだけです。テレビを見て毎日行われる葬式を見ているだけです。なぜ、僕たちにこのようなことが起こらなければならいのだろう。なぜ、世界は黙っているの?。他の人たちと僕たちは違うの?。」

「どうして世界は沈黙しているの?」ダーフィル・カシスより)

だが、2002年の春からは、さらに酷い事態がパレスチナ占領地を襲った。この時期にパレスチナを訪問したノーベル賞作家のジョゼ・サラマーゴは

「パレスチナで現在、イスラエルによって強制されている現実は犯罪だ。ブーヘンヴァルトやアウシュヴィッツと並べられる犯罪だ」

と述べ、イスラエル社会から猛反発を受けた。

この時期、パレスチナ各地で起こっていたことを伝えるレポートの一例:

7月に西岸を訪れたある日本人はこのような報告を書いている。

「想像を超える破壊ぶりでした。エルサレムからラマッラーに入る道路はさほどでもないとはいえ、西岸の中で各都市や街を結ぶ道路がすべからくメチャメチャに壊されていて、ラマッラーから他の市や街・村に出ていける道がなくなっています。ラマッラーに入るだけなら、カランディアのチェック・ポイント(検問所)さえクリアできればなんとかなりますが、その先どうするか。

しばしば記事などでも、「西岸は220ものゲットーに分割され、孤立している」とは読みますが、今回直接自分で歩いてみるまで、具体的にイメージできていませんでした。もっとも痛感したのは、短時間で急速に変化・悪化していく状況が、生活の流れを切り裂いていることです。誰も1時間後、30分後にその道が通れるかどうかが分からない。突然に目の前でイスラエル軍が道路を封鎖し、土砂・岩石を積み上げ、舗装道路を砕いて剥がし、大きな穴を掘っていく。「穴を掘るから待て」とパレスチナ人を並ばせて待たせる。

実際、ラマッラーとビールゼイトの間に設けられたソルダ検問では、朝に私たちが通ったときには、全員セルビスから降ろされて、一人一人尋問を受けたうえで、歩いて通り抜けました。ところが、昼にもう一度ビールゼイトの街中に入るときには兵士がおらず、セルビスに乗ったままで通過できました。その検問所が同じ日の夕方に、突然閉鎖されて、岩石のバリケードが築かれ、巨大な穴が掘られたのです。一日だけでこれだけ状況がコロコロ変わる。

それでもこの日は、三週間ぶりに午前5時〜午後5時でラマッラーが開いた日で、久々に街中が賑わった日なのだそうです。ここしばらくは、完全封鎖か、開いてもせいぜい9時〜2時で、しかもそこには検問で炎天下並んで待っている時間も含まれているわけです。買い物一つするのにどれほどの困難を強いられることか。この開くかどうか、そしてその時間帯の通告は前日の夜まではっきりとは分かりません。しかもその通告さえも確実ではない。つまり、行ってみたら2時間待たされて「今日は開かない」という一言で帰されることもある。……(後略)」(2002年7月24日付)

映画のなかで上空を飛んでいたヘリコプターや戦闘機の姿は、このようなことが進行していたひとつの証であった。

──軍事侵攻、暗殺攻撃以外に、占領下のパレスチナ人の日常生活につきまとっているイスラエル軍の暴力の数々──

【検問所】check point

チェックポイントとも言われる。ヨルダン川西岸地区では400箇所以上あると言われ、恒久的施設と臨時検問所の2種類に大別される。これはイスラエル領内への侵入を止めるものではなく、パレスチナの都市と都市、村と都市の行きかいを阻むものだ。封鎖状況は猫の目のように変わり、パレスチナ人の生活を左右している。何時間も待たされることは日常茶飯事であり、軍事作戦が行われると、何日間にも渡り封鎖されることも珍しくない。

検問所における兵士たちからの暴力、辱めは大きな問題となっていて、イスラエルの女性で作る「検問所ウォッチ」などは、検問所での兵士の振る舞いを記録しているが、事件は後を絶たない。

また、検問所での救急車の通行妨害もたびたび人権団体から告発されている。救急車が止められたことで、手遅れになって死亡した人もいれば、検問所で出産をしなければならなかった女性もわかっているだけで61人、赤ちゃんの死産は36人となっている(数値は2005年国連総会へ提出されたレポートによる)。

2005年になってからは、ハイテク技術を駆使した「人道的」検問所(通称「ターミナル」)の建設が始まっている。探知機などを使うことで人間同士の接触を避け、兵士の変わりに民間人が管理運営する予定。この予算は米国からパレスチナへの支援として拠出されたものの中から、イスラエルが使うということもわかっている。

リンク:

【外出禁止令】curfew

英語ではcurfew(カーフュー)と表現されるため、「夜間外出禁止令」と間違われることがあるが、パレスチナでは夜間のみならず昼夜の自宅軟禁を意味する。軍事作戦が行われる場所では、かなりの確率でイスラエル軍により外出禁止令が強制される。一日で解かれることもあるが、数日続く場合が多く、たまに午前中の数時間だけ解除されることもある。

外出禁止令は突然回ってきたイスラエル軍のジープから流されるスピーカーのお触れで始まる。解除の時間も同様に突然知らされるが、これもまた突然変更されることがある。

パレスチナ人にとって、外出禁止令下で外出するのは死の危険と隣り合わせになることを意味する。

コラム
「外出禁止令のもとで」

☆ミゼル・ジブリンくん(15歳、アラさんの兄):

「イスラエルの兵隊は、僕たちが家の外にあるキッチンやトイレへ行くのも邪魔をしました。信じられない状況です。トイレは家から離れているので、妹はカラのゴミ箱を使っています。僕はそれを拒否して、外のトイレへ行っています。父と母は止めますが、僕が言い張るので、あきらめて、気をつけるようにと言います。トイレが終わると、兵隊たちが取り囲んで、手を上げるように言います。そのうちの1人が僕を押して、尋問を始めました。「何をしているんだ?名前は?歳は?」僕が答えた時、彼らは僕を殴ろうとしました。そこへ父が「やめろ、やめろ、子供がトイレに行っただけじゃないか」と叫びました。彼らは僕を放し、僕たちの家に突入しました。」

「占領下の子どもたちの声」 より)

これは2002年3月31日付でラマッラーのハリール・サカキーニ・カルチャーセンターから発信されたメールからの引用で、外出禁止令下に置かれたラマッラーの子どもたちの証言の一部だ。この少年の家では兵士たちが突入した後、父親ら男性たちが逮捕、連行されている。ラマッラーではこの時期、42日間外出禁止令が続いた。(1週間〜10日間に一度、数時間の解除があった)

ここ近年でもっとも長い外出禁止令がしかれたのは、西岸のナブルスで、2002年には280日間以上に渡った。だが、生活を麻痺させる外出禁止令に対して、住民たちは軍の姿がないときには店を出し、外を出歩き、軍がやってくると退散するという抵抗を徐々に行い、生活を元に戻していった。

リンク: 「ナブロス日記、外出禁止令273日目:死の予感の浸透」

「ルート181」コラム
「窓から覗く顔」

「ルート181」の中部で、カメラが人気[ひとけ]のない通りに入っていくシーンがある。あれはパレスチナ自治政府の議長府が置かれたラマッラーの目抜き通りだが、外出禁止令がしかれているため、無人の街のように静まり返っている。

カメラはやがて交差点に停車している戦車をとらえる。カフカを愛読する兵士が話しているシーンで、ときおりカメラは交差点に面した建物のなかから外をうかがい見る子どもの姿を映し出す。

出ていくことができない外で何が起こっているのか。恐怖と好奇心がないまぜになって子どもたちは外を覗く。その視線に兵士たちが気づいているのかはわからない。が、皮肉にもひとりの兵士は「掟の門」の話をする。

北部では、イスラエル軍の封鎖を乗りこえて、食料を届けようとするイスラエルの団体(「タアユウシュ(共生)」)が出てくる。

「我々は法よりモラルを優先する」

と宣言し、荒れ野を横切っていく人びとの手には「60日間食料なし」「外出禁止令をやめろ」というプラカードが握られている。この人たちが目指していたのは、最も長い外出禁止令下に置かれていたナブルスだった。

兵士たちは襲いかかり、突き飛ばし、連行しようとするが、それをかいくぐって人々は前進する。建物の屋上から手を振るパレスチナ人たち。やがて、パレスチナ人もこの一団に混じり、「パレスチナに自由を」という合唱が始まる。戦車は徘徊しているが、イスラエル人も混じっているので、何もできない。ここにはかすかな「共生」への希望が生まれている。

「外出禁止令とは…」

【軍事封鎖地域】military closed zone

民間人の立ち入りを禁じるとイスラエル軍が宣言するときに使う言葉。この地域にいると、撃たれたり、逮捕されたり、排除されたりすることになる(たいがいは国籍を問わず)。たいていの軍事作戦中にはこの「軍事封鎖地域」が発動される。

しかし、パレスチナ人や占領に反対するイスラエル人のデモに対しても使われることが多く、またはパレスチナ人の居住地が唐突に「軍事封鎖地域」に指定されることもたびたび起こっている。

リンク:

【封鎖】 closure

封鎖は、検問所の閉鎖、外出禁止令、軍事封鎖地域の発動の単独、またはコンビネーションで作り出される。限られた地域では、イスラエル軍大部隊による包囲で実質的に封鎖に置かれることもある。

それ以外には、道路による封鎖がある。パレスチナのなかの道には、 パレスチナ人の使用が許されない3種類の道 があり、道路を塞ぐことによって、まったく外部との行き来ができない状態が作り出される。

この道路封鎖は、臨時検問所の形をとることもあるが、道を掘り返す、土塊を盛るなどということも頻繁に行われている。たとえば、ナブルス周辺の村々(イラク・ブリン、ベイト・フリーク)などは村から出る道を恒常的に塞がれて、人々はイスラエル軍の目を盗み、山道を徒歩で行くことで、かろうじて村の外へ出ることができる状態に置かれている。

人々の移動が制限され、日常生活に支障がでるだけでなく、この封鎖が経済活動に与える影響は大きく、産業が育たず、失業率が高い社会を作り出す大きな要因にもなっている。

リンク:

移動の制限に関するリンク集(英文) "Restrictions on Movement" (Electronic Intifada)

「ルート181」コラム
「有刃鉄線の風景」

「有刃」鉄線という言葉は日本語にはないが、有刺鉄線ではないので、新しい用語を作ってみた。この有刃鉄線の束が弧を描いて伸びているのは、パレスチナの封鎖の典型的な光景だ。

「他国の軍では人道上の理由で禁止らしい。……付いている刃が長く、深く切れる。人が近づくと危険だからだろう。だが、遮断物としては最強で、効果が高い。国際法では禁じられているみたいだが」

と語るのは、世界で唯一、この有刃鉄線を作っていると言うガザ近くイスラエル南部にある工場の人間。イスラエルが買い上げた金額は120キロメートルで6億シェケル(電気防御機能なし)。1kmあたり500万シェケル(1億2500万円以上、本当か?!)だと言う。

こんな高価なものを、パレスチナ人の家の出入り口に使っている写真を見たことがある。もちろん、住民たちが自宅にそんなことをするわけはなく、イスラエル入植者が嫌がらせのために行っているものだ。(リンク: ヘブロンで家のゲートに張り巡らされた有刃鉄線を取り除こうとしている少女の写真

また、2004年にはイラクにも出現しているのを見た。拷問で一躍名前を轟かせたアブグレイブ刑務所の前だったような気がするし、そこらじゅうで見た気もする。

「和平合意後の95,6年頃はかなり不況で、廃業の危機だった」

というこの工場は2002年の映画撮影時にはフル回転で操業しているようだった。今もなお、この工場は忙しいに違いない。

(ビー・カミムーラ、 ナブルス通信 編集者)

「封鎖とは…」

【入植地】settlement

入植地とはイスラエル政府がヨルダン川西岸とガザ地区に建設しているユダヤ人のためだけの植民居住区で、パレスチナ・イスラエルの大きな争点となっている。

国際法的には占領地に作られた入植地は不法な存在で、撤去されるべきもの。しかし、8000人ほどが住んでいたガザの入植地が2005年8月に廃止になった以外に、西岸と東エルサレムに合わせて42万人ほどのユダヤ人が住んでいる。

67年の占領以来、パレスチナ人の村、農地を没収して、入植地建設は進められてきたが、77年にリクード党政権が誕生すると、その建設は加速された(とくに建設を強力に押し進めたのがアリエル・シャロンだった)。また、オスロ合意(93年)以降の10年間で入植地は2倍に増加している。

西岸地域での入植地の分布は

  • 東エルサレムを取り囲む地帯(主にマアレ・アドミム)
  • カルキリヤ付近からナブルス方向に食い込む地帯(主にアリエル)
  • ヨルダン渓谷に沿って南北に伸びる地帯

に集中している。

(西岸での入植地分布がわかる地図: "The West Bank after Oslo (2002)"

これらの入植地とそれを結ぶ入植者用道路によって、西岸は囲い込まれ、また大きく3つに分断されている。

米国、EU、ロシア、国連(カルテット)が主導した和平へのロードマップでは、新たな入植地建設が凍結されたはずだが、これすらもイスラエルは守らず、入植地拡大を続けている。

もっとも大きな問題になっているのは、東エルサレムに増殖している入植地群と、さらにそれらとつながるような形で拡がっているマアレ・アドミム入植地群のところで、これらはエルサレムからエリコにかけての西岸の最も細い部分を上下に分断する形で拡がってきている。米国政府は表面上、マアレ・アドミム入植地群の拡大に反対しているが、2005年後半より工事は徐々に進められている。

入植地でまた別な問題となるのは、極右の入植者たちによるパレスチナ人への直接的な暴力である。襲撃、農地への放火、収穫の妨害や収穫物などの窃盗、殺人に至るまで、毎日のように事件が起きている。

そのなかでも最も深刻なものが、パレスチナ人居住地の真ん中に入植地が作られているヘブロンで、ひとつの地区では住民の9割がその暴力によって逃げだし、残った1割の人々も日々、迫害を受けている。外国人による監視も行われているが、それらの人々も暴力を受け、また、イスラエル軍に逮捕されることが続いている。

資料
「アムネスティ・インターナショナルによる入植地撤去への呼びかけ」より

国際社会は、占領地域におけるイスラエルの不法入植を長期にわたり認識してきた。国連安保理決議465(1980年3月1日)とは、イスラエルに対し、既存の入植地の撤去、とりわけ、エルサレムをはじめとする、1967年以降占領されてきたアラブ領における入植地の計画や建設を早急に中止するよう要請したものだ。

 しかし、国際社会は、この決議を実行する手段を講じてこなかった。占領地域におけるイスラエル入植地の大部分は、この決議が採択されたのちに作られており、過去10年間でこれまでにない規模で拡大している。西岸地区の入植地建設とそれに伴う社会基盤整備、拡大は、国連が支持し、イスラエルが遵守を約束した 2003年中東和平構想「ロードマップ」と矛盾して日々続いている。今週、イスラエル政府は、西岸地区の東エルサレムに3500の入植者用家屋を新たに建設することを正式に認めた。

 国際人道法そのものに違反するだけでなく、占領地域におけるイスラエルの入植政策の実施は、差別禁止を含む基本的人権の規定に反している。イスラエル人の入植、バイパス、それに伴う社会基盤の整備を目的とした土地収用や徴用、水をはじめとする必要不可欠な資源の差別的な配分は、その地に住むパレスチナ人の基本的権利に甚大な打撃を与えている。基本的権利には、適切な生活、住宅、健康、教育、仕事をする権利、占領地域内で自由に移動する権利などがある。

「占領地域におけるイスラエルの非合法的入植地の撤去…」 アムネスティ・インターナショナル、05年2月より)

リンク:

【隔離壁(分離壁)】Apartheit Wall

イスラエルが2002年以来ヨルダン川西岸地区内に建設している壁は完成すると全長が680キロに及ぶものになる。イスラエルは「テロリストの侵入を防ぐため」と建設理由を説明し、"security fence"と呼んでいる。

この壁の大きな問題点は

  • 西岸の中に深く食い込み、パレスチナ人の土地をイスラエル側へ強制的に併合している
  • 併合された部分には、パレスチナのなかで最も肥沃で、水資源が豊富な場所が含まれている
  • 多くの入植地が壁によって、イスラエル側に取り込まれる
  • イスラエルとパレスチナの境界が壁によって、一方的に策定される(パレスチナ人に残された土地は西岸の50%ほどになる。これは歴史的パレスチナ[現イスラエルを含んだパレスチナ全域]の10%強にしかならない)
  • 壁によりパレスチナ人のコミュニティを分断し、移動の自由を奪う
  • 壁に囲まれ、分断されたパレスチナでは、経済の自立的発展が見込めない

などであり、それゆえに「壁はパレスチナを世界最大のオープンエアー監獄にする」とほとんどのパレスチナ人は考えている。

リンク: 2005年2月段階で明らかになっていた隔離壁ルートマップ

2003年10月の国連総会において、この隔離壁の建設中止と撤去を求める決議が賛成144反対4[米国、イスラエル、ミクロネシア、マーシャル諸島]棄権12で圧倒的支持を得て可決された。(安保理決議では米国の拒否権発動のために成立せず)

さらに2004年7月、ハーグの国際司法裁判所(ICJ)において、壁に対する 勧告的意見 が採択され、壁は国際人道法、国際人権規約に違反するものとして、イスラエル政府に壁建設の中止、接収した不動産の返還、原状回復不可能な部分についての賠償を求めた。

しかし、イスラエル政府はこの国際社会の意見を無視し、この後も着々と建設を進め、2005年8月には西岸南部での壁建設を加速し始めた。

隔離壁(アパルトヘイトウォール)に関する日本語サイト:

「特集 アパルトヘイト・ウォール」 (多くの翻訳文献へのリンクあり)

コラム
「壁に囲まれた街で」

(この文章は 出入り口一カ所を除いて完全に壁に囲まれたカルキリヤ を初めて訪問したラマッラー在住の女性が書いたものである)

「レイラと私はカルキリヤをすっかり取り囲んでいる壁に沿って車を走らせた。私たちは街の土地の45%と19の井戸が「手の届かない」ところ、つまり壁の向こう側になってしまったことを知った。自分たちの農地に行くため、村人たちは街のたった1つの出入り口を使うしかない。もう10月の終わりだというのに、村人たちはオリーブの収穫をすることを許されていなかった。

70歳の農民、アブ・ムハンマドは、8メートルもある情け容赦ないコンクリートの壁の傍らに立っていた。見たこともないほど大きい、四角いサングラスをかけている。アブ・ムハンマドは「この壁を建てるためにイスラエルに引っこ抜かれてしまったオリーブやヤシ、いちじくの木をまた植えているんだよ」と壁を指さして言ったあと、腰をかがめて、土地を耕すのをまた続けた。

その瞬間に私が思ったのは、ゆっくりと成長するこれらの木が花咲かせるのを見るときまでアブ・ムハンマドが長生きできるのだろうかということだった。私は皺が刻まれたムハンマドの顔から私の涙を隠すために、自分にもムハンマドと同じ大きさのサングラスがあったらいいのにと感じた。それもレンズの色が濃いもの。

レイラと私が壁のところから去ろうと歩き出したとき、アブ・ムハンマドがこういうのが聞こえてきた。

「わしは最初から何もかもやり直しをするのがこれで3度目だ」

彼が他に何を言いたかったのかを聞くために引き返すことはできなかった。私の顔には涙が流れ続けていたからだった」

("Sharon and My Mother-in-Law" Suad Amiry, 2005 Pantheonからの抜粋)

【農地、林、自然の破壊】

パレスチナ・ナショナル・インフォメーションセンターの発表によると、パレスチナではこの5年間に

  • ブルドーザーでならされた農地 7万6867ドゥナム
  • 引き抜かれた木 135万5290本
  • 壊された温室と灌漑設備 3万1263ドゥナム
  • 隔離壁によって、奪われた農地 23万9789ドゥナム

(*1ドゥナムは約1000平方メートル )

にのぼる。(2000年9月アルアクサ・インティファーダ開始〜2005年9月、 4166 Palestinians killed, 45538 injured in the past five years

破壊の主な理由は、軍事侵攻、入植地建設やイスラエル人専用道路建設。隔離壁建設とあいまって、パレスチナ農業の基盤はどんどん取り崩されてきている。

【水問題】water problem

パレスチナ難民の帰還権、エルサレムの帰属、入植地問題と並んで、パレスチナとイスラエルの間で大きな争点になっているのは、水資源を巡る問題だ(水資源は、イスラエルと近隣諸国──シリア、レバノン、ヨルダン──との争点でもある)。むしろ、水資源確保のために、占領を続けているという見方さえある。

降水量に乏しいこの地域では、水は貴重なものだが、イスラエルは水資源をコントロールし、この地域のほぼ8割を水を使っている。それに対して、パレスチナ人はヨルダン川の水の利用を禁止され、井戸を掘るにもイスラエルの許可を得なくてはならない。利用できるのは2割ほどの水である。

イスラエルにおける青々とした芝生が広がる庭やプールの光景、水を多く必要とする作物の栽培はパレスチナ人には分けられない水によって成り立っている。

リンク(水問題についての詳細): 「パレスチナにおける水問題」

「ルート181」コラム
「我らはまだ水を飲めずにいるぞ」

「ルート181」の南部のパートにはそう多くの人が気づかない(かもしれない)「問題の」シーンがある。場所はガザに近いニル・アム。貯水池のシーンに続いて、博物館が登場する。そこで館長のようなイスラエル人のおじさんが振るう「熱弁」にも突っ込みどころが満載なのだが、外でこのおじさんがにこやかに語る夢の部分を取り上げてみる。

おじさんはカナダの公園の写真を手にして、そこに写っている豪華な噴水と同じものを作りたいという夢を語る。

「100万ドルあればできるんだが…」

素晴らしい噴水に、温水プール。その水を使っての養魚場、さらに果樹園などへの潅漑。寄付を集めて、博物館の外にそのような一大施設を作りたいのだ、とおじさんは上機嫌で語り、こんな歌を歌いながら帰宅していく。

「我らはまだ水を飲めずにいるぞ 我らに水を 絞りたてのワインを」

この男性がまったく無自覚なのは、わずか数キロ先に飲み水にさえ事欠く人々が生きているという事実だ。

パレスチナ人が許されている水の消費量はイスラエル人の5分の一。しかも、人口が密集するガザでは浅い井戸しか許されていないので、塩水化がひどい水しか手に入らない。この塩分濃度は国際的な容認基準の4倍に達し、住民の健康を脅かしている。ここ数年間にガザでイスラエル軍によって破壊された井戸も何十カ所にも及ぶ。

この地での噴水やプールの景色というのは、じつは搾取の象徴なのだが、語り手の男性はそんなことにまったく頓着しない。だが、これはイスラエル/パレスチナの問題だけではなく、私たち自身がまったく気づかずに過ごしていることでもある。石油やガスをふんだんに使い、快適な暮らしが成り立つ裏側に、そのせいで生活や生命を脅かされている人々がいる。

私たちの暮らしのすぐ近くにはそれらの人々が見えないだけで、イスラエルでは同じ場所にそれらの人々がいるというのが違っている。そんなことを考えさせてくれたシーンだった。

水をテーマにしたこの博物館は「ニル・アム・キブツ 水と安全の博物館」という。「水と安全」──そのどちらもがパレスチナ人からは取り上げられているものだ。

(パレスチナ情報センター、スタッフ・ノート: 「ルート181」における水問題 を改変。fibonacciによる)

「水問題とは…」

参考になる図書:

"Water in Palestine" --Problems-Politics-Prospects (Passia)

【家屋破壊】house demolition

パレスチナ・ナショナル・インフォメーションセンターは、この5年間にイスラエル軍によって

  • 完全に取り壊された家 7628軒
  • 部分的に壊された家 93842軒
  • 損傷を受けた家 72105軒

の被害があったと発表した(2005年9月末)。

パレスチナの街や村でおなじみの家屋破壊はダイナマイトで爆破されるか、ブルドーザーで潰されるか、ミサイルや砲弾を撃ち込まれることでもたらされる。軍事作戦下でない場合は、通常15分前に通知され、荷物などの運び出しを許される。しかし、 中に人がいるままの破壊 もないわけではない。

この家屋破壊はおおよそ以下の3つのケースに大別される。

  1. 自爆攻撃などイスラエルへの攻撃をおこなった者の自宅や実家が壊される
  2. 「違法建築」だとして取り壊される
  3. 軍事作戦の中で壊される

2の「違法建築」だとして取り壊されるケースは、東エルサレムとB地区、C地区を中心にして行われている。イスラエル当局の建築許可がなかったか、建築条件に違反したということがその理由となっているが、許可が下りる見込みはとても少ない。(イスラエル領内のパレスチナ人(イスラエル・アラブ)の居住地でもこのタイプの取り壊しは頻繁に行われている)。

このタイプの家屋破壊は、その地域のパレスチナ人人口比率を下げたり、入植地を建設するために行われている。

リンク:

3の軍事作戦のなかで破壊されるケースは、ガザで多く起こった。最も被害が大きかったのは、ガザ最南端、エジプト国境沿いにあるラファで、推定1500軒以上が5年間で壊され、1万人以上が家を失った。パレスチナ人の家への破壊を止めようとして、イスラエル軍ブルドーザーに米国人レイチェル・コリーさんがひき殺されたのもラファだった。

リンク:

残る1のケースは、ジュネーブ条約で禁止されている集団懲罰に当たるもので、2005年2月からイスラエル軍はこのタイプの破壊を停止している(しかし、内部をめちゃめちゃに壊すということは続いている)。

「ルート181」コラム
「家族もみな罰す」

「メイン通りから狭い横道に入っていくと、人だかりがしている家に到着した。正確に表現すると、家ではない。ダイナマイトによって吹き飛ばされたため、家の原形はほぼ残っていなかった。……

……隣家の住人からの聞き取りによると、爆破された家には、数日前に起きた、ナーブルス近郊のイスラエルの入植地に向かう専用バスに対して待ち伏せ、銃撃をした犯人の家族が住んでいたのだという。実行犯ではなく、イスラエル当局から計画者であると「断定」された男性の家だった。

爆破時、彼は家に滞在していなかった。彼の父母と兄弟姉妹が寝ていたときに、イスラエル軍が急襲し、家から出ていくように命令したのだという。重要な家財道具を運び出す時間すら与えられなかった。着の身着のまま外に出た家族は、その時点で、自分たちの家の運命を悟ったに違いない。……

……家が爆破されたあと、父と兄弟たちは、「計画犯の父である」あるいは「兄弟である」という理由にならない理由で、イスラエル軍に逮捕された。」

これは2002年にナブルスに滞在した清末愛砂さんが、ナブルスの難民キャンプで経験したことを綴ったものだ。(『パレスチナ 非暴力で占領に立ち向かう』清末愛砂 草の根出版会より引用)

ジュネーブ第4条約第33条(連座刑、略奪、報復行為の禁止)では「被保護者は、自己が行わない違反行為のために罰せられることはない」となっているが、明らかにこれに反する行為をイスラエル軍は行ってきた。

家屋破壊が家族単位での集団懲罰であるなら、軍事侵攻は地域単位、検問所は民族単位での集団懲罰だと考えることもできる。

いずれにしても、このような懲罰行為が抑止にならなかったことは、これまでのパレスチナの歴史が証明している。

「家屋破壊とは…」

【逮捕と裁判】arrest and trial

パレスチナ人で自分自身、家族、友人の誰かが逮捕されたことがない人間など考えられないというほど、イスラエルによる逮捕は「普通の」ことになっている。

2005年9月の段階でイスラエルに拘留されているパレスチナ人は約8600人だった(うち、子ども228人、女性115人)。

逮捕の理由は、イスラエルへの攻撃に参加した、「計画」した、武装グループのメンバーだったというものから、検問所で兵士にガンつけた(または「不敵な」笑みを浮かべた)などというものまで様々だ。まったく何もしていなくても、逮捕されることもある。

たいていの場合、起訴される罪状もないので数日で釈放されるが、その間に尋問(拷問を伴う場合もある)を受ける。またはこの尋問を目的に逮捕されることもある。何の罪状もなく釈放される場合も釈放金(bail)を要求されることが多い。これはパレスチナ人にとって、誘拐されて身代金を払う感覚に等しい。

コラム 「ただ、捕まった」

A君は西岸ナブルスにある大学に通う大学生だ。体育を専攻しているAはスポーツマンで、日々トレーニングにいそしんでいた。実家のある村からは検問所や封鎖を乗りこえて大学へ通うのが困難なため、ナブルスの市街に祖母が残していった家で暮らしていた。また、この家を同じ境遇にある学生たちに下宿として貸していた。

まったく政治と関係ない暮らしを送っていたAが逮捕されたという話が伝わってきた。Aの友人が電話をしたら、彼は「今、拘留されているんだ」と電話で語ったのだという。(この時点では携帯電話が通じた)

Aが語ったところによると、ある日、突然兵士が下宿に押し入り、家を捜索し、自分を連行したという。寒い中、水を浴びせられ、殴られているということだった。その後、友人がAに電話をすると、今度はイスラエル兵士が出た。「横にAはいるけど、今は出せないな…」と兵士が言う言葉の後ろで、ぼこっという鈍い音がして、Aの呻き声が聞こえた。

Aの友人たちはイスラエルやパレスチナの人権団体に連絡を取り、Aの釈放を訴えた。そのかいあってか、Aは10日間ほどで釈放されたが、釈放金はしっかり取られた。そのお金は両親が工面してくれたものだった。

Aがなぜ逮捕されたのかはまったくわからない。下宿に大学生がたむろしていたのが理由かもしれない。また、Aの携帯にかかってくる電話を軍が探っていたようにも思われる。

拘留されている間、Aはトイレにも行かせてもらえず、自分の糞尿にまみれていたという。恥辱が頂点に達したとき、Aは憎しみを突き抜けて、悟りのような境地に達したと後で友人に語っている。「これからはもっと自分がやりたいように生きようと思ったんだ」とA。

そんなAが釈放された翌日にやったことは、大学へ試験を受けに行くことだった。(これがAのしたいことだったのか?!)Aの背中には拷問でつけられた傷が残っているが、Aは肉体の研鑽を積む日々を送っている。

釈放されずに拘留が続く場合は、正式な起訴を受け、裁判に入るわけだが、裁判が受けられるのはパレスチナではましなことになっている。というのは、イスラエルには罪状を明かさず、裁判なしで拘留する「行政拘留」というものが存在し、それを適用されるパレスチナ人も多々存在しているからだ。

「行政拘留」には6ヶ月の期限があるが、これは何度でも期間を更新できるので、実質の制限はないと言っていい。家族や身内は「今度こそ」と思いこの期限を待ちわびるが、その期待は裏切られることも多い。なかには軍法廷が期間更新を認めない裁定を出したにも関わらず、拘留を延長されるというケースもある。また、国外への「退去」を条件に釈放に応じるという取引が持ちかけられた場合も報告されている。

この2つの例: 「ワリードを家に戻して」 不当な行政拘留をやめさせるための呼びかけ

資料
「彼らがあなたの家のドアをノックする 」

(最近、ナブルスで子供たちのための活動をやっている時に、部屋いっぱいの子供たちに、刑務所に入っている家族がいる人は?と聞いた人がいました。半分以上の子供が手を挙げました)

イスラエル軍は夜にやってきます。毎晩やってきては、男たちを──父親、兄弟、パートナー、叔父、従兄弟たちを連れていきます。暗い真夜中に、涙に濡れた目、怒りに燃えるまなざしが見つめる中、バレスチナの男性たちは、M-16ライフル銃を突きつけられ、拘引理由を説明されることもないままに連行されていくのです。イスラエル軍の兵士は、午前2時か3時に、家のドアを激しくたたくか、でなければ単にダイナマイトでドアを吹き飛ばして家に入り込んできて、眠っている子供たちの頭上に、実弾を連射します。屋内を捜索し、ありとあらゆるものを引っくり返し、引きちぎり、たたき壊し、家具や値の張る物品をめちゃめちゃにし、お金や宝石類や携帯電話を盗み、母親に平手打ちを食わせ、父親を殴り、兄弟たちの服をぬがせ、こうして私たちのコミュニティから男たちをひとりまたひとりと連れ去っていきます。

サーミーと叔父が逮捕されたと、昨晩、フセインが言いました。私は息を飲み、重苦しい沈黙の中、言葉を探しながら、フセインの顔を見つめました。頭の中で、サーミーと交わした最後の会話が蘇ります。「将来、いったい何がやってくると期待している? 」「もっとたくさんの戦車、もっとたくさんの死、失う友達の数は増えていって、刑務所で過ごす時間も増えていく、失業、閉鎖された学校、辱め、軍事作戦、侵犯、数え切れないほどの制約──そう思わない?」とサーミーは静かに私に言いました。

サーミーは19歳。2003年2月12日の夜、父親の家に、イスラエル軍がサーミーを拘束しにやってきました。2日間で、ハリーリー家の4 人の男性が連行されました。

これは2003年2月にナブルスに滞在していた米国人スーザン・バークレイによって書かれた 「彼らがあなたの家のドアをノックする」 の冒頭部。この文章の後には近隣で次々と逮捕されていった人々が登場する。ナブルスで逮捕作戦が熾烈になっていたこの時期のことが、そして逮捕作戦とはどういうものなのかがよく伝わるレポートになっている。

パレスチナ人拘留者が収監されている刑務所(拘留センターとも呼ばれる)の環境が劣悪なことも、パレスチナ人を苦しめている。

栄養も量も乏しい食事、医療アクセスの拒否、面会権の剥奪、暴力(独房、雑居房への催涙弾の撃ち込みなど)などにより最低限の人権も守られていない。劣悪な環境で健康を害し、死亡する人もいる。このため、刑務所ではしばしば状況改善のためにハンストが行われている。

リンク:



イスラエルの軍事体制が生み出すもの

イスラエル軍、正式名称「イスラエル国防軍」(Israel Defense Forces)は建国前から活動していたユダヤ人武装組織「ハガナー」を元に形成された。

イスラエルは国民皆兵制をとり*、17歳以上はおよそ男子3年女子2年の兵役を義務づけている。その後も男子は43〜5歳まで、毎年1ヶ月の予備役に就くことになっている(女子も場合により数年の予備役を求められる)。

* 兵役義務が課されていないのは、イスラエル・アラブのムスリムとクリスチャン(自発的参加は審査の後にできる)と一部の超正統派信者。

この徴兵制は、各種の社会保障制度や奨学金、公務員や大企業への就職ともリンクしているため、兵役を課されないイスラエル・アラブは社会保障制度や一般就職から閉め出される形になる。

イスラエル軍は国土面積比、人口比にすると国防費、装備ともに、世界でも指折りの軍隊である(国民一人あたりの国防費では、1673ドル──米国が1128ドル、国土1平方キロあたりの兵力では7.34人──米国が0.15人となっている。数値は国防費が2001年、兵力が2002年のデータによる)

主力戦車数で世界第7位、歩兵戦闘車数で世界第3位の陸軍に加え、空軍はアパッチ戦闘ヘリコプター、F16戦闘機、無人偵察機、無人攻撃機など最新鋭の兵器を揃える。また、イスラエル政府は核兵器の存在を「否定も肯定もしない」という立場を取り、NPT(核拡散防止)条約への加盟もIAEA(国際原子力機関)の査察も拒んでいるが、世界の専門家たちは核弾頭100〜200個を保有しているとみなしている。

【メンタルな影響】

2005年度のイスラエル軍の任務中における最も多い死因は自殺で、約半数の30人になっている。それに続くのが任務中の事故で、パレスチナ人との戦闘で死亡する割合はさほど高くない。自殺は2004年にも問題となった。

「イスラエル軍兵士」は国民の偶像だともされているイスラエルで、公に語られることがなかった軍事体制を担う負の面が、ここ数年では徐々に語られるようになってきている。

自殺に加え、除隊後の錯乱、ドラッグ中毒、暴力への依存への傾向が社会問題になり、また、兵役中に行ったことを証言する元兵士たちも現れた。

資料
「俺は何てことをしてしまったんだ!」

フリシュは、「1年8ヶ月前に取り組み始めたときに、私たちは麻薬常習者へと堕してしまったバックパッカーたちを治療するつもりだったんです」と言う。「でも私たちはすぐに、この困難な諸問題というのが実は除隊した兵士たちの問題なのだということを発見したのです。それで私たちは、インドから戻ってきたとか、海外に行かなかったとかに関わりなく、危機的な状態にある全ての元戦闘兵士たちの症例を取り上げることにしました。私たちは、かかってきた電話の数に仰天させられました。麻薬中毒になってしまった、自殺しようとする、そしてほとんどの場合には感情的な悩みなど、息子たちの非常に痛ましい状態を抱えた親たちから、900件以上の電話を受けたのです。こうした若者たちの多くは、サイェレート・マトゥカル〔Sayeret Matkal〕、海軍奇襲部隊、ドゥヴデヴァン〔Duvdevan〕そしてドゥヒファート〔Duchifat〕などの、非常に有名なエリート部隊の退役兵士たちでした。」

この文章はイスラエルのマアリヴ紙(2002年11月5日付)の記事を英訳したものからの翻訳で、除隊後に元イスラエル兵士を襲っている危機について書かれている。

「私たちは〔パレスチナ人たちの〕あちこちの家に入ってゆきました。子供たちや老人が泣いているのを見ました。私たちは、彼らのTVセットに銃弾を撃ち込みました。最初は気の毒に思うなんてことは、ないんです。やるべき仕事を与えられて、それをやるだけです。でも、後になって自宅に戻ったときに、自分が一体何をやってしまったのか、理解し始めるのです。そのことに深く傷つくのです」

と元兵士が証言するように、自分が軍務で行ったことは「時限爆弾のように」後で個人に襲いかかり、人生を破滅させてしまう。兵役に就く年齢が18や19であることを考えると、その年頃の人間に軍務が、占領が与える影響の大きさははかりしれない。

ここで書かれた中でも衝撃的なものは以下のようなものだ。

「最初、私たちは〔抹殺作戦の〕成功に幸せを感じ、また鼻高々でした。切り刻まれた死体の残りを前にして、ポーズを取りながら写真を撮りました。この人物の千切れた内臓を手にして笑っている者もいました。数週間後に突然、作戦将校がやって来て私たちを叱責し、これらの写真を手渡せと命令されました。将校は、それを私たちの目の前で燃やして、こんな写真を二度と撮ってはならないと警告したのです。

自分たちが何をしでかしたのかが分かり始めると、私たちはひどく動揺しました。その少し後に、私たちのうちの二人がパーティーに出かけて行って、そこでエクスタシー〔麻薬の一種〕の錠剤を大量に飲んだのです。二人は完璧に麻薬が効いた状態で基地に戻ってきました。私たちは二人から銃を取り上げて、精神科医がやって来て連れて行くまでの間、二人を部屋に閉じこめました。二人のうち一方は誰が誰なのかも全く分からない状態で、ずっと『ムハンマド! ムハンマド! ムハンマド!』と叫び続けていました。彼は完全にクレージーになってしまいました。インティファーダが彼をうち負かしたのです。」

この文章の全文は 「俺は何てことをしてしまったんだ!」 ──100人もの兵士たちが〈インティファーダ症候群〉で治療を受ける──(エイタン・ラビン、岡田剛士訳)に。

「ルート181」コラム
「検問所症候群」

カランディア検問所で「おい!」と人を呼びつけて監督たちに言葉遣いを直される兵士(中部)は、「僕の検問所」と言い反感をむき出しにするが、すぐにトーンダウンして下を向き、低い声でこう言う。

「この検問所に1年もいればこうなるさ。いやになる」

イスラエル兵士たちの任務は8時間ずつのシフトとなっていて、8時間任務、8時間休憩、8時間任務が繰り返される(05年になりこのシフトを改善する話もでていた)。肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていくなかで、全能の神であるかのように振る舞うことができる検問所では、パレスチナ人を虐待することに楽しみを覚える兵士が現れる。

「俺たちにとって、検問所はそれぞれがどこまでやれるか、限界を試す場所だった。どれだけ無慈悲に、無感覚に、気狂いになれるのか。これらの言葉は肯定的な意味で使われていた」

と書いたのは、オスロ合意後の比較的「穏やかな」時期だった96-99年に兵役を勤め、ガザの検問所で過ごしたライラン・ロン・フューラー。

兵役でなされた加害がイスラエル社会では語られていないこと、それがより個々の兵士のこころに罪悪感を増加させていることに気づいたフューラーは、2003年に一冊の本を書き上げる。その書名は『検問所症候群』("Checkpoint Syndrome")

そこでフューラーは検問所で兵士がどのように非人間化していくかをこのように書いている。

「「周りの状況に慣れるにつれ、自分達が統治者であり、力があるということにも気づく。そして、自分の手にある権力を認識すると、それぞれの性格に応じて、その限界を果てしなく押し広げようとするものだ。検問所勤務に一通り慣れてしまうと、逸脱した振る舞いはどんなものでも当たり前のような気になった。始まりは「記念品集め」だった。俺たちは祈りのための数珠を没収した。次はたばこ。それは止むことがなく、いつしか当たり前の行動になっていた」

「その次は力を見せつけるゲームが始まった。上のほうから俺たちが本気なんだぞと分からせ、アラブ人を抑止するようにという命令がきた。物理的な暴力も日常のことになった。検問所で『適切な振る舞い』をしないパレスチナ人は片っ端から罰していった。俺たちがていねいじゃないとか、うまく立ち回ろうとしたとか判断すれば、それで十分で、厳しいお仕置きが加えられた。とるに足らないことを口実にして最初から意図された嫌がらせだった」

部隊のなかで最も理性的で落ち着いていると思われていた兵士がある日突然、パレスチナ人を理由もなく撃ち、部隊全体が驚いたこともあるとフューラーは書いている。しかし、大抵の場合は子どもがするいじわるが残虐になったような類のことが行われていた。

「シャハーは身分証明書をチェックすると、それを手渡さずにほっぽり投げた。アラブ人が自動車を降りて、身分証明書を拾うのを見ては喜んだものだ。……シャハーは一日中そうやって彼のゲームをやって過ごしたこともある」

 馬車にのり毎日検問所を通る小人に恥をかかせた話。「兵隊たちは無理矢理、小人を馬の背に乗せ写真を撮った。それから殴り付け、半時間ほどもなぶりものにした。次の自動車が検問所に来るまで、小人はなぶりものにされた。可哀想に、小人にはそんな目にあわなけりゃならない理由はひとつもなかった」兵隊たちは、袋だたきにされ、縛リ上げられ、血まみれのアラブ人と一緒に記念写真を撮る。イスラエルの兵隊に厚かましくもにやついたといって、シャハーはアラブ人の頭に小便をかけたこともある。ダドーという兵隊はアラブ人に無理矢理、四つん這いにならせ、犬のまねをさせたこともある。兵隊たちはたばこや祈りのための数珠を強奪した。「ミロがたばこをよこせというのに嫌がるから、アラブ人は腕を折られ、連中の車のタイヤは別な兵隊、ボアズに切り裂かれた」

このようなフューラーの証言は、イスラエル社会ではほとんど顧みられることがない。多くの人が「知っている」のに、知らないふりをしたいことばかりだからなのだろうか。

だが、検問所でのモラルは社会問題になった。それは検問所で 兵士がパレスチナ人に楽器を演奏させた 事件がナチスの行いを連想させると議論になったことが大きい。その後、イスラエル政府は「人道的検問所」を作るとして、建設を始めている。

屋根が付き、畜舎のように仕切られたこの検問所では、極力人間同士の接触が行われないようになっている。(トイレが設置されたことも自慢のひとつらしい)。

これで兵士たちは「検問所症候群」から自由になるのかもしれないが、イスラエル社会が「検問所症候群」から抜け出したとは思えない。

(ビー・カミムーラ、 ナブルス通信

引用は 「俺はアラブ人の顔を殴りつけた」 (ギデオン・レヴィ、リック・タナカ訳)より。

「軍務のメンタルへの影響」

リンク:

【兵役拒否】

個人的な兵役拒否者はイスラエル社会に以前から存在していたが、82年のレバノン戦争でイスラエル社会に「兵役拒否の運動」が起こり、それ以来、兵役拒否は細々ではあるが、連綿と続いてきた。

2000年のアルアクサー・インティファーダ以降、激化する軍事侵攻と比例するかたちで兵役拒否の動きは再び注目されている。

兵役拒否には部分的兵役拒否(占領地での任務を拒否するもの、兵役そのものは拒まない)と全面的兵役拒否の2タイプがある。

社会的に衝撃を与えたのは、2001年に62人の高校生たちが連名で兵役拒否を宣言し、その中には何人もの全面的兵役拒否者がいたという出来事だった。この高校生たちは収監され、社会的に処罰されたが、この兵役拒否を宣言する高校生は続いている。兵役が社会保障(低利の住宅ローンや奨学金などの資格)や就職とリンクしているイスラエルでは、一切の兵役につかないことは将来の安定を欠く生き方を選んだに等しい。

政権にショックを与えたのは、 エリート軍人たちが部分的兵役拒否を連名で宣言した ことだった。そのなかにはイスラエルの英雄と目されている兵士もいた。そのような人々の占領地での作戦遂行拒否は、イスラエル軍が国内で持ち続けてきたイメージを壊しかねないものだった。これがガザ「撤退」プランがでてくるひとつの背景にあるとシャロンの顧問であるワイスグラスは後に語っている。

イスラエル軍は内部からも倫理的に問われているが、それに対する正面からの回答はいまだなされていない。

資料
「高校生たちの宣言」

シャロン首相、
私達は、イスラエルで教育されて育った若い男女です。私たちはまもなくIDFに徴兵されることになります。私たちはイスラエル政府や軍の攻撃、人種差別的政策に抗議し、私たちがその政策に加わるつもりのないことを告知したいと思います。私たちは、イスラエル国家によって行われている、人権を踏みつけるような行為に激しく反対します。土地の没収、逮捕、裁判なしの死刑、家屋の破壊、閉鎖、拷問、そして医療行為の妨げ。これらはイスラエル国家が犯している犯罪のいくつかにしか過ぎません。これらのことは、イスラエルが加盟している国際的な契約に対する巨大な違反です。このような行為は違法であるばかりでなく、国家市民の個人的安全を高めるという、彼らが宣言した目的を達するものでもありません。したがって、私たちは、自分たちの良心の要求に従うことが私たちの願いであり、またパレスチナ人民への抑圧行為に加担することを拒否いたします。これらの行動は"テロリスト"の名に値します。安全は、イスラエル国家とパレスチナの人々との間の平和的合意のみにより達成されうるものです。私たちは、同年代の他の人達に呼びかけていますが、同様に、兵役に就いている人々、職業軍人、そして予備兵の方々にも同様に、私たちの例に続くよう呼びかけます。

(この宣言は 「12年生、イスラエルで徴兵拒否運動」 より引用)

この高校生兵役拒否運動の参加者たちの意見は上記にインタビューが掲載されているほか、

で、本人たちの手記などが読める

コラム
「ある日、突然に」

高校生で兵役を拒否したハガイ・マタールはイスラエル社会をこのように評した。

「──イスラエルの社会は過度に軍事化されている。子供たちは、兵士に手紙を書き、生存のための闘争を賛美しながら成長していって、軍隊に入る。軍隊はイスラエルの主要な社会構造をなしていて、将来の仕事や政治的な立身のチャンスなどがすべて、軍に発している。軍は、いわば一種の全国的同胞会(fraternity)のようなものだ。兵役を終えたのちには、メディアによる絶え間のない洗脳と、家族や仲間からの強い圧力にさらされる。占領地での軍務に就くことを拒否した兵士と学生は、仕事においても、社会生活や家族内においても、決定的に「将来のない」状況に直面することになる。

このような社会で一度は兵役に就いた者が、どのようにしてこの軍事社会から身を引こうという決意をするのか。それをクリス・マイヤーはこう書いた。

「彼らに、学校から軍隊へ、仕事へ、家庭へという、よどみない生活の流れを断ち切る決意をさせるのは、いったい何なのか?それはある日、突然に起こる。

彼らは、自分の一番の親友が、他人を殴り殺すことに快感を覚えているのに気づく。軍の仲間が子供を撃ち殺して、そのことを得意げに話し、妊娠した女性が「誤まって」撃たれ、嫌がらせや暴行がどこでも日常的に見られることに気づく。そして、自分自身もまた、同じことをしていることに、犠牲者は実際はごく普通の男性であり女性であり子供であるということに気づく。それは、言ってみれば、自分が、常軌を逸した犯罪者となってしまった友人や同僚たちとともに「トワイライト・ゾーン」にいるのだということに、突然、気づくようなものだ。」

この「ある瞬間」のことを兵役拒否を始めた兵士たちの多くが語っている。

自分が押し入った家で、威厳を保ち、イスラエル兵に出ていくよう命じた自分の祖父にも思えるひとりのパレスチナ人に会った瞬間。

ユダヤ人が襲われていると聞いてかけつけると、パレスチナ人の親子に向けて、ユダヤ人の少女が石を投げつけていたのに出会った瞬間。

そこから別な世界へ歩みだしてしまった兵士たちが語る言葉は、占領地で起こっていることの誠実な証言であり、イスラエル軍事社会への痛烈な批判に満ちている。

「これにはあっというまに慣れてしまうし、多くの者が、この任務を気に入ってしまいます。パトロールに出かけていって──つまり、王様のように道を歩いていって、通行人たちを心ゆくまでいたぶって、仲間と一緒に悪ふざけをするということですが、そんなことをしながら、同時に、自分が国を守る大英雄であると感じられるような場所が、いったいここ以外のどこにあるでしょう?」

(アサーフ・オロン、占領地での任務)

「兵士たちはみな無感覚になっていて、自分たちがやっていることの過ちがいっさい見えていません。この暴虐的な占領という状況下では、子供を撃ち殺した話を得意げに語ることも、救急車の通行を阻止して、なおかつ自分の行為の正当性に疑いを持たずにいることも、何の感情もなく人を殺すことも、すべてが実際に起きてしまうのです。」

( ギル・ネメシュ、占領の精神病理)

「何よりも大きな嘘は、「防衛の盾(Defensive Shield)」という名前です。こういう言葉づかいはよくわかっています。これは、実際には「防衛」でも「盾」でもありません。「ガリラヤの平和」作戦──これは、「平和」でも「ガリラヤ」でもありません。「目的に向けての予防的処置」──「予防的」などではないし、まして「目的に向けての」などということは絶対にありません。「苦しい歩み寄り」──実際には「苦しく」もなければ「歩み寄り」でもありません。何という恥知らずの嘘の山!」

(イーダン・ランダウ、イスラエルが用いるダブルスピーク)

(すべて 「トワイライト・ゾーンへようこそ:占領地の予備役兵たち」 クリス・マイヤー、山田和子訳より)

参考になる図書:

『イスラエル 兵役拒否者たちからの手紙』ペレツ・ギドロン (NHK出版)

"The Other Israel" --Voices of Refusal and Dissent (Roane Carey and Jonathan Shainin / The New Press)


『ルート181』から読み解くパレスチナとイスラエル

パレスチナ情報センター